2024年3月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
無料ブログはココログ

2023年10月 8日 (日)

日本書紀・古事記の構造

記紀が伝える仁徳天皇の事績がどうやら邇芸速日命の神話であるということになると、記紀に伝わる天皇の事績のほとんどは神話である可能性が出てきます。

  1. 仁徳天皇(邇芸速日命の神話、河内王朝の祖先神)
  2. 履中天皇~安康天皇(奈良盆地の古い神話、天孫神話の邇邇芸命や海幸彦山幸彦にあたる)
  3. 雄略天皇(奈良盆地南部の英雄神話、日本武尊神話にあたる)
  4. 清寧天皇~武烈天皇(播磨国の神話)
  5. 応神天皇(誉田別命神話、河内王朝を継いだ継体天皇が河内王朝の神の上に、北陸・東国の神の誉田別命を設置)
  6. 日本武尊(東国の英雄神話)
  7. 景行天皇(九州の英雄神話)
  8. 垂仁天皇(奈良盆地北部の神話、誉田別命神話と関連がある)
  9. 崇神天皇(纏向の神話)
  10. 孝元天皇(近畿地方の祖先神)
  11. 孝霊天皇(吉備の祖先神)
  12. 綏靖天皇~孝安天皇(瀬戸内地方の祖先神)
  13. 神武天皇(日向国・豊後国の祖先神)

それぞれの神話にはある程度の歴史も反映されているでしょうが、記紀に書かれている時系列で物事が起きたと考えるのは無理があるだろうというのが私の考えです。神武天皇から武烈天皇までの血縁関係は、飛鳥時代の人が中国と朝鮮に残っていた倭国の記録と、当時残っていた伝説と古墳から創作したのでしょう。

邇芸速日命の真実

私は以前に日本神話と四季の星座: おかくじら (cocolog-nifty.com) というエントリーを書きました。天孫系の神話は星の物語であり、太陽(天照大神)がそれぞれの神の星座を訪れることによって、季節が回るという世界観を古代の日本人は持っていたのではないかというものです。

星座と神様の対応関係です。                                                           

星座 太陽 黄道 男神 女神
星座 星座
冬至 射手座 伊耶那岐命 蠍座

伊耶那美命

春分 ペルセウス座

邇芸速日命

アンドロメダ座

御炊屋姫

夏至 牡牛座 猿田彦 オリオン座

天宇受売命

秋分 牛飼い座

邇邇芸命

乙女座

木花之佐久夜毗売

 

そしてそれぞれの神様が持っている性質です。                                                                       

星座 太陽 黄道 男神 女神
星座 星座
冬至 伊耶那岐命 伊耶那美命 母→死
春分 邇芸速日命 航海・収穫 御炊屋姫 妻→内部分裂
夏至 猿田彦 占い・政治 天宇受売命 祭・乳母?
秋分 邇邇芸命 武力・若さ 木花之佐久夜毗売 娘・美→衰え
 
この仮説は邇芸速日命の神話がほとんど伝わっていない弱点がありました。しかし古事記や日本書紀を分析するうちに、どうやら邇芸速日命の神話は、仁徳天皇の事績として形を変えて記録されているのではないかと考えるようになりました。
                                                                       
星座 太陽 黄道 男神 女神
星座 星座
冬至 伊耶那岐命 伊耶那美命 母→死
春分 仁徳天皇 航海・収穫 大后石之日女 妻→内部分裂
夏至 猿田彦 占い・政治 天宇受売命 祭・乳母?
秋分 邇邇芸命 武力・若さ 木花之佐久夜毗売 娘・美→衰え
仁徳天皇の事績は説話的な内容が多く史実とはいいがたいと言われています。仁徳天皇の事績と伝えられるのは

1-疲弊した国民のために3年間税を免除した

2-仁徳天皇は艶福家で、大后(皇后)は嫉妬して天皇と対立した

  2-1吉備海部直の女の黒比売と菜摘をする物語

  2-2八田皇女に通う天皇に嫉妬して、皇后は祭祀のための御綱柏を船から捨てた

  2-3大后は山城に逃亡、養蚕起源神話の類型、日本書紀では大后はそのまま宮には帰ってこない

  2-4女鳥王と結婚しようとするが速総別王に横取りされてしまう

3-日女嶋の雁の卵(武内宿禰が登場する)、朝鮮半島の影響が伺われる物語

4-兎寸河の大木で作った大船、太陽の船の神話と考えられる

このように仁徳天皇の物語は、私が邇芸速日命の神格として予想した航海と収穫を象徴しています。大后も嫉妬で周囲を振り回して内部分裂を象徴しています。

 

また、大后は祭祀のために自ら船に乗って紀伊国まで出かけてお供え物を集めています。自らをないがしろにする仁徳天皇に対して怒りを表します。大后の抵抗によって祭祀が滞っており、仁徳天皇は大后をなだめようと四苦八苦します。このように大后石之日女は仁徳天皇からは独立した女性です。これは儒教の影響を受ける前の、強い権利を持った日本の女性の姿を現していると言えそうです。

 

古い起源をもつ神話ほど、記録では新しい時代に書かれるという原則があります。文字が伝わり、部族の歴史を記録する事業が始まった時、記録が残っている歴史のすぐ前の時代に、支配的な部族に伝わる神話が配置されます。周辺の部族や大国の影響を受けてできた新しい神話が古い時代に付け加えられていくのです。

 

旧約聖書はその傾向が顕著で最も古い記録は士師紀とされ、ヨセフやアブラハムの神話はユダヤ王国・イスラエル王国が成立してから、民族を統合するために成立した神話です。創世期はさらに新しくバビロン捕囚前後にバビロニアの影響を受けてできた神話だろうとされています。

 

仁徳天皇の神話は邇芸速日命の神話で、場所としては河内に伝わる神話ではないかと思います。邇芸速日命はおおらかで賑やかなのが好きなお父ちゃん。きれいな女に弱く、強い女房に振り回される。大阪は昔からこんな感じだったのでしょう。

2023年6月26日 (月)

松平信康自刃事件の真相

「どうする家康」面白いですね。私も見ています。物語は中盤の山場である松平信康自刃事件に差し掛かっています。この事件は織田信長の娘で信康の妻であった徳姫(五徳姫)が、義母の築山殿(瀬名)が織田・徳川共通の敵である武田勝頼と内通したことを父の信長に通報し、信長が家康に築山殿と信康を処刑するよう命じたとされています。

築山殿が敵の武田と内通した理由は、築山殿が家康に相手にされなくなって嫉妬した、徳川家中が浜松派(家康)と岡崎派(信康)に分裂していたから、あるいは信康が発狂したからなどと言われていますが古来より定説がありません。酷薄な命令を下されたのに信長と家康の関係はこの後も表面上は悪化しておらず、信康の申し開きのために岐阜に呼ばれた酒井忠次が役目を果たせなかったにもかかわらずこの後も家康から重用されているなど不可解な点があります。家康は信康のことを惜しんでいたとされ、家康と信康の関係が悪化していたわけでもないようです。

古来から謎とされているこの事件ですが、一つ手掛かりとなりそうなことに思い当たりました。松平信康は今川宗家の血を引いているので今川家を継ぐことができます。そして今川家は足利将軍家に何かがあった時には、将軍を継ぐべき家と当時信じられていました。すなわち、信康は征夷大将軍の有力候補だったかもしれないのです。

徳川家康の正妻である築山殿の母は、今川義元の妹でした。築山殿も今川の血を引くことを意識していたと言われています。桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にし、跡を継いだ今川氏真は武田信玄と徳川家康に攻められて今川氏は滅亡します。ただし氏真は死んだわけでは無く、この後も各地を流浪していました。

氏真にも男子がいましたし、後北条氏三代目北条氏康の妻はやはり義元の姉で、二人の子供である北条氏政や上杉景虎(後述)も今川家の血を引いています。今川家の血を引く男子ならば複数いたのですが、松平信康のアドバンテージは織田信長の娘婿であることです。

織田信長は元亀三年(1572)に室町幕府十五代将軍足利義昭と決裂し、それ以降数年間は多方面から攻撃を受けて苦境にありました。その中心にいたのは将軍義昭です。この頃は将軍が実力者と関係悪化することは珍しくなく、将軍が京都から追放されて、実力者は新しい将軍を立てるのが普通でした。この当時の義昭のスペアとしては阿波公方や古河公方・小弓公方がいましたが、信長は阿波の三好氏の関係は安定していませんでしたし、古河公方と小弓公方がいる関東は遠いです。信長は阿波公方の縁者を小姓として使っていたという話もありますが、あまり血筋がはっきりしませんでした。となると、出自が明確で身内である将軍候補として松平信康が浮かび上がってきます。

今川氏真は元亀三年ごろに浜松にいたらしく、天正三年(1575)に浜松から上洛して、義元の仇である織田信長と会見して和解をしています。同じ頃、信康のお膝元の岡崎では大岡弥四郎の事件が起き、築山殿が勝頼と内通を始めたとされています。

私はこの時に織田信長と今川氏真の間で、松平信康を氏真の養子にして今川家を再興させる構想が話し合われたのではないかと考えたいです。そして信康を遠江において武田勝頼との間の緩衝地帯にすることを考えたのではないでしょうか。この構想は氏真が浜松にいる間に、家康・築山殿と話し合われていたはずです。築山殿は信長黙認で武田・上杉・北条との交渉に入ったと考えられます。

信康を征夷大将軍、あるいは駿府公方とでも言うべき地位にして、武田・上杉・北条を統括させるのです。武田勝頼は織田・徳川との戦いに疲弊していました。上杉謙信は北条氏・古河公方と戦っていました。謙信は足利義昭に忠誠を誓っていましたが、義昭は西国にいましたので頻繁に連絡が取れません。北条は古河公方を掌中に持っていましたので微妙です。

この構想は天正六年(1578)の上杉謙信の死によって大きく動いたようです。謙信が急死したことにより、北条家から養子に入っていた上杉景虎(北条三郎)と謙信の甥である上杉景勝の間でお家騒動が起きます。これを御舘の乱と呼びます。武田勝頼は最初は景虎を支援してたのですが、途中から景勝に乗り換えました。北条と奥羽の大名は景虎を支援していましたが、中下越の国侍が景勝についたので最終的に景勝が勝利します。

北条氏政、上杉景虎、早川殿(今川氏真の妻)は北条氏康と瑞渓院(義元の姉)の間の子供ですから今川の血を引いています。なので信康将軍構想があったとすると、信康側につくはずです。しかし天正七年(1579)の三月に上杉景虎は景勝に攻められて討ち死にしました。この頃になると織田信長の優勢は動かなくなっていましたので、信長は武田と上杉を滅ぼすことに決めたのではないでしょうか。信康を将軍にする必要もなくなっていました。

しかし築山殿は尚も信康に今川家を継がせて駿河国を治めさせることを勝頼と交渉したのではないかと考えられます。これは織田信長の方針に反します。征夷大将軍になれるかもしれない信康は、今度は信長にとって危険人物となってしまいます。そこでまず築山殿が処刑されたのでしょう。

北條氏と織田氏との交渉は天正七年の景虎討ち死にから本格化しますが、その時に交渉役に立ったのは北条氏照でした。氏照は古河公方足利義氏の後見人でした。これは北条家からの信康将軍構想の拒否回答です。信康が蟄居させられたのが天正七年(1579)八月三日、築山殿が処刑されたのが八月二十九日、氏照の使者が安土に到着したのが九月十一日ですので浜松には八月末には来ていたでしょう。ここで徳川家康と北条氏照の使者との間で築山殿と信康の扱いが話し合われたのではないかと思います。信康は九月十五日に自刃しましたが、これは織田信長と北条氏照の使者の会見の結果を早馬で確認した上でのことと考えられます。万が一にも織田と北条が決裂した場合は、北条を内部分裂させる材料として信長が信康を生かしてくれる可能性に家康は賭けていたのでしょう。

8月3日 徳川家康が岡崎に入り、信康が蟄居させられる

8月中旬 北条氏照の使者が浜松に入る

8月29日 築山殿が処刑される

9月11日 織田と北条の使者が会見、和睦

9月15日 松平信康が自刃する

こう考えると、築山殿は大河ドラマでいうような甘い妄想に走ったわけでもないですし、信康も恐らく発狂はしていなかったと思われます。最初の内は織田信長も黙認の和平交渉だったのでしょうが、状況の変転によっていつの間にか織田信長の障壁となってしまい、家康は二人を手にかけざるを得なかったのでしょう。これならば誰も悪くないですし、家康も誰も責めることができません。

信康征夷大将軍構想は、後に徳川家康が天下取りに動いた動機の核をなしたのではないかと私は考えます。

私はこのブログに書いたことの著作権は放棄しないですが、このアイデアに関しては好きに使って論文や小説を書いていただいて構いません。きっと従来の徳川家康像を変えることでしょう。正当に評価されてこなかった築山殿と信康の名誉も回復されるでしょう。

2022年5月 8日 (日)

鯨地名(高知県) 天災の陰に隠された近畿地方との深いつながり

鯨坂八幡宮 高知県佐川町庄田

高岡郡の佐川町庄田地区にある八幡宮。御祭神は応神天皇(平凡社地名辞典高知県)です。「土佐太平記」には応神天皇・神功皇后・武内宿禰とあるらしいですが、今のところ確実な資料で確認が取れていません。

このサイトによると、地元の伝承では平安時代からある神社とされているそうです。元ネタは「八幡庄伝承記」で、これは鯨坂八幡宮に伝わる伝承を、別当寺である蜷崎山正泉院八幡寺の僧侶が記したものであるようです。そのため史料的価値は低いとされているそうですが、佐伯文書と符合する部分もあるので、中世の文章でないことは明らかであるものの、その当時に伝わった伝承は正しく記録していると思われます。

それによると、延長元年(923)に土佐国安芸郡室津にいた土佐権守別府康弘の次男別府経基は、分家して高北(今の越智町付近)を開拓して別府庄を作ったそうです。その際に自分の領地の守り神として、兄の別府康高の領内にあった鯨坂八幡宮を勧請したのが最初ということです。

この安芸郡にあった元の鯨坂八幡宮は現在では不明です。「土佐太平記」には夜須の坂のほとりと推測してあるようです。

 

土佐別府氏

姓氏系図事典によると土佐国の室津別府氏は惟宗氏ではないかとあります。惟宗氏は秦氏の一派です。土佐国には幡野郡もあります。高岡郡にも別府がいて、これは久佐賀別府氏と呼ばれています。

土佐国の惟宗氏は、天武天皇の時代に流された蘇我赤兄の末裔を称しています。

室戸市の室津城の別府氏は文氏を名乗っていたという記録も残っていて、なかなか定まらないのですが、惟宗氏にせよ文氏にせよ渡来人であることは間違いがなさそうです。

 

今年のゴールデンウイークではお遍路で室戸から唐浜にかけて歩きました。この辺りの海岸部では八幡信仰が盛んで、御田八幡宮、田野八幡宮、安田八幡宮などがあります。

安田八幡宮に伝わる神宝の大般若経は非常に古く、神亀四年(727)に一般民衆が財物を出しあって書写したという記録が残っています。残念ながら神亀四年に書写された大般若工は鎌倉時代に火事で焼けてしまったのですが、文永から弘安にかけて書写し直されたものが残っており、高知県の重要文化財に指定されています。鎌倉時代に書き直された経典に、最初の経典は神亀四年にこの地域の善知識がお金を出し合って書かれたと記録があるとのことです。

この大般若経は安田の人々によって保管されていたらしく、天正年間に領主の安田三河守親信から安田八幡に奉納されています。私は安田八幡宮をかつて安芸郡にあったという鯨坂八幡宮の候補に挙げたいです。

 

鯨野(いさの) 高知県土佐清水市伊佐

平安時代の和名抄に土佐国幡野郡鯨野郷が記録されています。これは足摺岬を指す地名であるとされています。現在でも足摺岬に伊佐という地名が残ります。なぜ鯨野で「いさの」と読むかというと、古代には鯨を「いさな」とも呼んだからです。

伊佐という地名は沖縄県、鹿児島県、山口県、兵庫県、茨城県等に残ります。海岸部に多く、海部とのつながりがありそうです。茨城県稲敷市には伊佐部という地名が残っていて、大杉神社(あんばさま)の近くでもあり古代の海部とのつながりを思わせます。兵庫県養父市の伊佐は山間部にあるのですが、養父には鯨地名や鯨の伝承が残っています。

 

仁井田神社

もう一つ注目したいのが仁井田神社です。仁井田神社は高知県に広く分布する神社です。仁井田神社の御祭神は孝霊天皇と吉備彦狭島命です。吉備彦狭島命は伊予神社の御祭神です。

仁井田神社の伝承では、欽明天皇の時代に、孝霊天皇王子の伊予親王の末裔である伊予の小千家(越智家)の小千玉澄が高岡郡に移住し、小千玉澄についてきて伊予から移住した河野氏や高野氏が、土佐国東部を開拓したとされています。

孝霊天皇は鯨地名ととても縁が深いです。佐川町にも仁井田神社はあり、土佐から阿波に抜ける物部川沿いにも仁井田神社は分布しています。

 


自然災害との戦いと近畿地方からの大量移住

実は土佐国には鎌倉時代より前のことがあまり伝わっていません。四国の他の県と比べても古代の記録がとても少ないです。日本書紀には天武天皇の時代に大地震があって、沿岸部は津波で壊滅したとあります。海中に没した土地もあったとあり、これは高知市の浦戸湾の辺りではないかと推測されています。山間部も地滑りで消滅した集落があるようです。

その後も奈良時代や平安時代に疫病や飢饉に何度も襲われています。

このシリーズは古代の海部の痕跡を探っています。土佐も海に面した国であるので古代に海部が活動していたはずですが、海部の記録はあまり残っていません。安芸郡の鯨坂八幡宮も地震や疫病で荒廃してしまったのかもしれません。

仁井田神社や別府氏の伝承からはこんな流れが想定できそうです。

  1. 伊予から欽明天皇の時代に、伊予国の海部が渡来人を連れて、高岡郡を中心に土佐東部を開拓
  2. 海部の中心地であった高岡郡は天武天皇の時代の南海地震でいったん壊滅、その後も疫病や飢饉に何度も襲われる
  3. 安芸に移住した人たちは生き残り、安田神社の大般若経に安芸郡の人々の記録が残っている。
  4. 平安時代の中期、室津の渡来人と海部が十分な力を蓄えて高岡郡の再開拓をし、その痕跡が鯨坂八幡宮

この他にも高知県には葛城氏と賀茂氏の流れがあります。雄略天皇の時代に大和朝廷と対立して流されたことになっていて、これは上記の1に当たる移民の波かもしれません。伊予だけでなく、近畿からの移住の波も、五世紀から六世紀にかけてあったようです。伊予からの海部の移住と、近畿からの葛城氏・賀茂氏・渡来人の移住は恐らく連携していたのでしょう。

越智氏の伝説では、天智天皇の時代の新羅征伐の主力は四国水軍だったとされています。だとすると白村江の戦の大敗による被害もかなり大きかったと考えられます。徳島県の大野寺や隆禅寺には、天智天皇の時代に大海人皇子が阿波で出家したという伝承が残っています。大海人皇子はこの時の戦いの総司令官だった可能性が高く、敗戦の被害を受けた四国を訪問して慰撫して(反抗しないようになだめること)いたのかもしれません。

高知県と徳島県は近畿地方と遺伝子の共通性が高く、高知県や徳島県山間部の方言は、上古の近畿地方の言葉や発音を良く保存していると言われています。これも飛鳥時代から平安時代にかけて、災害や戦災にあった土佐国を救援するために、近畿から大量の移住があった痕跡なのかもしれません。

2022年1月23日 (日)

鯨地名(愛媛県) 伊予と常陸の意外な縁、第三代安寧天皇の痕跡

Ehime

鯨・久司浦 愛媛県越智郡上島町弓削

芸予諸島の広島県因島と向かい合う島が弓削島です。弓削島北端の集落の名前が鯨です。住所は久自浦です。

弓削島全体が櫛村と呼ばれていたこともあるそうです。久司浦には東泉寺という寺院があり、別名鯨薬師と呼ばれています。鯨薬師の隣にある溜池には鯨池という名前がついています。

弓削島の南にある久司山があります。その尾根伝いに久司山古墳群があります。後期の古墳群です。弓削島には弥生時代から連綿と人が住んでいました。

弓削神社の御祭神は饒速日尊、大己貴命、事代主命、孝謙天皇です。孝謙天皇が祀られているのは弓削氏との関連でしょう。

弓削島の西方には大三島があります。大三島の神様は大山祇神です。その娘が磐長姫と木花昨夜姫で邇邇芸命のお嫁さんです。山梨県韮崎市の尾鰭宮や埼玉県児玉郡神川町の鯨山にある白岩神社は大山祇神を祀っています。

 

日高鯨山古墳 愛媛県今治市馬越町

因島、弓削島から芸予諸島を渡っていくと四国の今治に到着します。古墳時代には小市(おち)・怒麻(ぬま)の国造が置かれていました。そして伊予国府は今治市の上徳に置かれていたという説が有力です。桜井には国分寺があってこれは現在まで続いています。そのため今治は多数の遺跡があります。

芸予諸島に向かい合う湊町に相の谷古墳群があり、伊賀山山頂にある相の谷前方後円墳は愛媛県最大の前方後円墳です。全長80m。禽獣四乳鏡や、直刀、鉄剣などが発掘されていて、大豪族の墳墓と考えられています。近くの大浜八幡神社には饒速日尊と天道日女命が祀られています。

今治市には五十嵐(いかなし)という住所があります。五十嵐(いがらし)は茨城県と福島県に特有の苗字です。伊加奈志神社があり、御祭神は五柱命・五十日足彦命・伊迦賀色許男命です。また大須伎神社(おおすぎ)があり。大杉神社もまた茨城県南方の利根川と霞ケ浦沿いに多数分布する神社です。伊予国と常陸国には何らかの縁があるようです。

日高鯨山古墳は、古くから鯨山と呼ばれた10mくらいのなだらかな丘の呼び名です。前方後円墳という説もありますが、形が崩れており、自然地形を見誤ったのではないかという説があります。円墳はあるようで埴輪も出土しています。地元の古代豪族越智氏の祖先乎致命の墳墓であるという説が、天正七年(1579)三島大祝越智安任の「小千(おち)御子御墓在馬越邑」という手記によって唱えられています。

馬越の南西には神宮という地名があり、ここはもう一つの古代豪族野間氏の根拠地とされています。そこには品部川(しなべがわ)が流れています。これは東京の品川と似ているのが気になります。野間神社は式内社で、御祭神が若弥尾命・飽速玉命・野間姫命・須佐之男命です。奥の院には石神さんとして信仰される巨石があります。巨石信仰は鯨地名によく見られます。

このように、今治市の鯨山は古代の海部の一派である越智氏・野間氏と縁が深い土地にあり、彼らの間でも聖地として伝承があったようです。そして常陸国南部・山梨県・埼玉県の鯨地名との関連もありそうです。

 

鯨川・鯨橋 愛媛県八幡浜市五反田

愛媛県西部の八幡浜市に鯨橋という地名があるらしいです。詳細は地名辞典やネット上の調査ではわかりませんでした。

 

鯨塚 愛媛県西予市明浜町

西予市に鯨塚があるそうです。鯨が漂着した跡とされています。市指定 碆の手の鯨塚/西予市 (city.seiyo.ehime.jp)

 

鯨大師 愛媛県宇和島市蛤

愛媛県宇和島市の向かいにある九島にはかつて遍照山願成寺があり鯨大師と呼ばれていました。願成寺は現在は市内に移転しましたが、九島の蛤には今も大師堂があります。嘉永四年(1851)の永代祈願録には弘法大師が赤松浦から鯨谷へ移動して即願成寺を建立したという伝承が記録されています。四国八十八ヶ所の番外札所とされていました。

龍光院(別格六番)のホームページによると、元々第四十番札所観自在寺の奥の院が九島の鯨大師で、明治になってから龍光院に合祀されたとのことです。

 

第三代安寧天皇浮穴宮

愛媛県の松山市とその奥の久万高原町はかつては浮穴郡(うけなぐん)と呼ばれていました。久米という地名があり古代豪族の久米氏が近畿地方から移住したとされています。

第三代安寧天皇は日本書紀によれば片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや)に都を作ったとされています。母は事代主神の娘の五十鈴依媛命。后は事代主神の孫鴨王の娘の渟名底仲媛命。

従来は愛媛の浮穴は、この奈良県の浮孔から移住した久米氏がつけた地名とされているのですが、二代綏靖天皇の伝説が大分県の豊後大野にあり、私は安寧天皇の都の浮穴宮ももしかしたら愛媛県の浮穴なのではないかと考えています。そして愛媛県の久米が久米氏の発祥の地ではないかと。

«鯨地名(広島県) もう一つの吉備津彦の出雲攻めルート