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2022年5月 8日 (日)

鯨地名(高知県) 天災の陰に隠された近畿地方との深いつながり

鯨坂八幡宮 高知県佐川町庄田

高岡郡の佐川町庄田地区にある八幡宮。御祭神は応神天皇(平凡社地名辞典高知県)です。「土佐太平記」には応神天皇・神功皇后・武内宿禰とあるらしいですが、今のところ確実な資料で確認が取れていません。

このサイトによると、地元の伝承では平安時代からある神社とされているそうです。元ネタは「八幡庄伝承記」で、これは鯨坂八幡宮に伝わる伝承を、別当寺である蜷崎山正泉院八幡寺の僧侶が記したものであるようです。そのため史料的価値は低いとされているそうですが、佐伯文書と符合する部分もあるので、中世の文章でないことは明らかであるものの、その当時に伝わった伝承は正しく記録していると思われます。

それによると、延長元年(923)に土佐国安芸郡室津にいた土佐権守別府康弘の次男別府経基は、分家して高北(今の越智町付近)を開拓して別府庄を作ったそうです。その際に自分の領地の守り神として、兄の別府康高の領内にあった鯨坂八幡宮を勧請したのが最初ということです。

この安芸郡にあった元の鯨坂八幡宮は現在では不明です。「土佐太平記」には夜須の坂のほとりと推測してあるようです。

 

土佐別府氏

姓氏系図事典によると土佐国の室津別府氏は惟宗氏ではないかとあります。惟宗氏は秦氏の一派です。土佐国には幡野郡もあります。高岡郡にも別府がいて、これは久佐賀別府氏と呼ばれています。

土佐国の惟宗氏は、天武天皇の時代に流された蘇我赤兄の末裔を称しています。

室戸市の室津城の別府氏は文氏を名乗っていたという記録も残っていて、なかなか定まらないのですが、惟宗氏にせよ文氏にせよ渡来人であることは間違いがなさそうです。

 

今年のゴールデンウイークではお遍路で室戸から唐浜にかけて歩きました。この辺りの海岸部では八幡信仰が盛んで、御田八幡宮、田野八幡宮、安田八幡宮などがあります。

安田八幡宮に伝わる神宝の大般若経は非常に古く、神亀四年(727)に一般民衆が財物を出しあって書写したという記録が残っています。残念ながら神亀四年に書写された大般若工は鎌倉時代に火事で焼けてしまったのですが、文永から弘安にかけて書写し直されたものが残っており、高知県の重要文化財に指定されています。鎌倉時代に書き直された経典に、最初の経典は神亀四年にこの地域の善知識がお金を出し合って書かれたと記録があるとのことです。

この大般若経は安田の人々によって保管されていたらしく、天正年間に領主の安田三河守親信から安田八幡に奉納されています。私は安田八幡宮をかつて安芸郡にあったという鯨坂八幡宮の候補に挙げたいです。

 

鯨野(いさの) 高知県土佐清水市伊佐

平安時代の和名抄に土佐国幡野郡鯨野郷が記録されています。これは足摺岬を指す地名であるとされています。現在でも足摺岬に伊佐という地名が残ります。なぜ鯨野で「いさの」と読むかというと、古代には鯨を「いさな」とも呼んだからです。

伊佐という地名は沖縄県、鹿児島県、山口県、兵庫県、茨城県等に残ります。海岸部に多く、海部とのつながりがありそうです。茨城県稲敷市には伊佐部という地名が残っていて、大杉神社(あんばさま)の近くでもあり古代の海部とのつながりを思わせます。兵庫県養父市の伊佐は山間部にあるのですが、養父には鯨地名や鯨の伝承が残っています。

 

仁井田神社

もう一つ注目したいのが仁井田神社です。仁井田神社は高知県に広く分布する神社です。仁井田神社の御祭神は孝霊天皇と吉備彦狭島命です。吉備彦狭島命は伊予神社の御祭神です。

仁井田神社の伝承では、欽明天皇の時代に、孝霊天皇王子の伊予親王の末裔である伊予の小千家(越智家)の小千玉澄が高岡郡に移住し、小千玉澄についてきて伊予から移住した河野氏や高野氏が、土佐国東部を開拓したとされています。

孝霊天皇は鯨地名ととても縁が深いです。佐川町にも仁井田神社はあり、土佐から阿波に抜ける物部川沿いにも仁井田神社は分布しています。

 


自然災害との戦いと近畿地方からの大量移住

実は土佐国には鎌倉時代より前のことがあまり伝わっていません。四国の他の県と比べても古代の記録がとても少ないです。日本書紀には天武天皇の時代に大地震があって、沿岸部は津波で壊滅したとあります。海中に没した土地もあったとあり、これは高知市の浦戸湾の辺りではないかと推測されています。山間部も地滑りで消滅した集落があるようです。

その後も奈良時代や平安時代に疫病や飢饉に何度も襲われています。

このシリーズは古代の海部の痕跡を探っています。土佐も海に面した国であるので古代に海部が活動していたはずですが、海部の記録はあまり残っていません。安芸郡の鯨坂八幡宮も地震や疫病で荒廃してしまったのかもしれません。

仁井田神社や別府氏の伝承からはこんな流れが想定できそうです。

  1. 伊予から欽明天皇の時代に、伊予国の海部が渡来人を連れて、高岡郡を中心に土佐東部を開拓
  2. 海部の中心地であった高岡郡は天武天皇の時代の南海地震でいったん壊滅、その後も疫病や飢饉に何度も襲われる
  3. 安芸に移住した人たちは生き残り、安田神社の大般若経に安芸郡の人々の記録が残っている。
  4. 平安時代の中期、室津の渡来人と海部が十分な力を蓄えて高岡郡の再開拓をし、その痕跡が鯨坂八幡宮

この他にも高知県には葛城氏と賀茂氏の流れがあります。雄略天皇の時代に大和朝廷と対立して流されたことになっていて、これは上記の1に当たる移民の波かもしれません。伊予だけでなく、近畿からの移住の波も、五世紀から六世紀にかけてあったようです。伊予からの海部の移住と、近畿からの葛城氏・賀茂氏・渡来人の移住は恐らく連携していたのでしょう。

越智氏の伝説では、天智天皇の時代の新羅征伐の主力は四国水軍だったとされています。だとすると白村江の戦の大敗による被害もかなり大きかったと考えられます。徳島県の大野寺や隆禅寺には、天智天皇の時代に大海人皇子が阿波で出家したという伝承が残っています。大海人皇子はこの時の戦いの総司令官だった可能性が高く、敗戦の被害を受けた四国を訪問して慰撫して(反抗しないようになだめること)いたのかもしれません。

高知県と徳島県は近畿地方と遺伝子の共通性が高く、高知県や徳島県山間部の方言は、上古の近畿地方の言葉や発音を良く保存していると言われています。これも飛鳥時代から平安時代にかけて、災害や戦災にあった土佐国を救援するために、近畿から大量の移住があった痕跡なのかもしれません。

2022年1月23日 (日)

鯨地名(愛媛県) 伊予と常陸の意外な縁、第三代安寧天皇の痕跡

Ehime

鯨・久司浦 愛媛県越智郡上島町弓削

芸予諸島の広島県因島と向かい合う島が弓削島です。弓削島北端の集落の名前が鯨です。住所は久自浦です。

弓削島全体が櫛村と呼ばれていたこともあるそうです。久司浦には東泉寺という寺院があり、別名鯨薬師と呼ばれています。鯨薬師の隣にある溜池には鯨池という名前がついています。

弓削島の南にある久司山があります。その尾根伝いに久司山古墳群があります。後期の古墳群です。弓削島には弥生時代から連綿と人が住んでいました。

弓削神社の御祭神は饒速日尊、大己貴命、事代主命、孝謙天皇です。孝謙天皇が祀られているのは弓削氏との関連でしょう。

弓削島の西方には大三島があります。大三島の神様は大山祇神です。その娘が磐長姫と木花昨夜姫で邇邇芸命のお嫁さんです。山梨県韮崎市の尾鰭宮や埼玉県児玉郡神川町の鯨山にある白岩神社は大山祇神を祀っています。

 

日高鯨山古墳 愛媛県今治市馬越町

因島、弓削島から芸予諸島を渡っていくと四国の今治に到着します。古墳時代には小市(おち)・怒麻(ぬま)の国造が置かれていました。そして伊予国府は今治市の上徳に置かれていたという説が有力です。桜井には国分寺があってこれは現在まで続いています。そのため今治は多数の遺跡があります。

芸予諸島に向かい合う湊町に相の谷古墳群があり、伊賀山山頂にある相の谷前方後円墳は愛媛県最大の前方後円墳です。全長80m。禽獣四乳鏡や、直刀、鉄剣などが発掘されていて、大豪族の墳墓と考えられています。近くの大浜八幡神社には饒速日尊と天道日女命が祀られています。

今治市には五十嵐(いかなし)という住所があります。五十嵐(いがらし)は茨城県と福島県に特有の苗字です。伊加奈志神社があり、御祭神は五柱命・五十日足彦命・伊迦賀色許男命です。また大須伎神社(おおすぎ)があり。大杉神社もまた茨城県南方の利根川と霞ケ浦沿いに多数分布する神社です。伊予国と常陸国には何らかの縁があるようです。

日高鯨山古墳は、古くから鯨山と呼ばれた10mくらいのなだらかな丘の呼び名です。前方後円墳という説もありますが、形が崩れており、自然地形を見誤ったのではないかという説があります。円墳はあるようで埴輪も出土しています。地元の古代豪族越智氏の祖先乎致命の墳墓であるという説が、天正七年(1579)三島大祝越智安任の「小千(おち)御子御墓在馬越邑」という手記によって唱えられています。

馬越の南西には神宮という地名があり、ここはもう一つの古代豪族野間氏の根拠地とされています。そこには品部川(しなべがわ)が流れています。これは東京の品川と似ているのが気になります。野間神社は式内社で、御祭神が若弥尾命・飽速玉命・野間姫命・須佐之男命です。奥の院には石神さんとして信仰される巨石があります。巨石信仰は鯨地名によく見られます。

このように、今治市の鯨山は古代の海部の一派である越智氏・野間氏と縁が深い土地にあり、彼らの間でも聖地として伝承があったようです。そして常陸国南部・山梨県・埼玉県の鯨地名との関連もありそうです。

 

鯨川・鯨橋 愛媛県八幡浜市五反田

愛媛県西部の八幡浜市に鯨橋という地名があるらしいです。詳細は地名辞典やネット上の調査ではわかりませんでした。

 

鯨塚 愛媛県西予市明浜町

西予市に鯨塚があるそうです。鯨が漂着した跡とされています。市指定 碆の手の鯨塚/西予市 (city.seiyo.ehime.jp)

 

鯨大師 愛媛県宇和島市蛤

愛媛県宇和島市の向かいにある九島にはかつて遍照山願成寺があり鯨大師と呼ばれていました。願成寺は現在は市内に移転しましたが、九島の蛤には今も大師堂があります。嘉永四年(1851)の永代祈願録には弘法大師が赤松浦から鯨谷へ移動して即願成寺を建立したという伝承が記録されています。四国八十八ヶ所の番外札所とされていました。

龍光院(別格六番)のホームページによると、元々第四十番札所観自在寺の奥の院が九島の鯨大師で、明治になってから龍光院に合祀されたとのことです。

 

第三代安寧天皇浮穴宮

愛媛県の松山市とその奥の久万高原町はかつては浮穴郡(うけなぐん)と呼ばれていました。久米という地名があり古代豪族の久米氏が近畿地方から移住したとされています。

第三代安寧天皇は日本書紀によれば片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや)に都を作ったとされています。母は事代主神の娘の五十鈴依媛命。后は事代主神の孫鴨王の娘の渟名底仲媛命。

従来は愛媛の浮穴は、この奈良県の浮孔から移住した久米氏がつけた地名とされているのですが、二代綏靖天皇の伝説が大分県の豊後大野にあり、私は安寧天皇の都の浮穴宮ももしかしたら愛媛県の浮穴なのではないかと考えています。そして愛媛県の久米が久米氏の発祥の地ではないかと。

2021年10月24日 (日)

鯨地名(広島県) もう一つの吉備津彦の出雲攻めルート

Hiroshima

 

鯨山 広島県福山市水呑町

和名抄に諌山郷(いさやまごう)があり、福山市から尾道にかけての海岸沿いではないかと推測されています。平凡社の地名辞典によると、旧版の「広島県史」では、鯨をいさなと訓じたことを根拠に、福山市水呑町の鯨山を痕跡とする説をの載せています。

同じく平凡社地名辞典の福山市水呑村の項に、平重盛が当地の葛城山を登る途中で岩淵の水を飲んだという伝説の載せています。鯨地名シリーズで何度も取り上げたように、葛城山の麓の地名は櫛羅(くじら)であり、鯨地名があるところには葛城山も良く見つかります。そのため、水呑町の鯨山も古代からの地名であると考えても良いでしょう。

しかし水呑町のどの山が鯨山なのかは、地図上では未確認です。

 

鯨島 広島県三原市木原町

三原市の沖にある島。向島の西。

 

鯨観音(対潮院) 広島県尾道市因島土生町郷区 

対潮院 尾道観光協会

因島の南の平野部にある寺で江戸時代の初めの建立です。ご本尊は如意輪観音菩薩です。昭和時代に捕鯨船で銛を撃っていた漁師が、鯨の供養のために建てて聖観音菩薩があり、鯨観音と呼ばれています。そのため古代史とは関係はなさそうです。しかし向かいの愛媛県弓削島には鯨という地名があります。

 

久代村(くしろむら) 広島県庄原市東城町久代

旧比婆郡の東城町に久代村がありました。中世に奴可郡(さらに奥地の備後落合や道後山のあたり)を支配した宮氏(久代氏)発祥の地とされています。最初は当地の比田山城を本拠にしたとされています。

太室山頂上に鎮座する太室神社は久代の天王と呼ばれていたそうです。京都八坂神社から勧請したと伝わります。境内には火神迦具土神を祀る愛宕神社があります。

宮氏の菩提寺は豊穣山能楽寺、ご本尊は薬師如来です。山号も寺の名前もとても珍しいので記録しておきます。

久代記によると、久代氏は元々大和国宇陀郡に領地を持っていたが、山名氏清が明徳の乱を起こした時に与力したことが後から発覚し、備後に逃れたとあるそうです。しかし出雲国比田(島根県能義郡広瀬町)から移り住んだという伝承もあり、比田山城に来る以前のことはわかり難いと地名辞典にもあります。奴可郡の宮氏は南北朝時代から備後で活動していることが確認できるので、久代の宮氏はその分家ではないかと地名辞典にあります。

久代村には吉備津神社があり、備後国一宮の吉備津神社を分霊したと伝わります。備後国一宮は品治郡(ほんじぐん)宮内村(現福山市新市町)にあります。この辺りは備後国の国府があった土地です。鯨山と吉備津神社がある福山から国道182号を北上すると久代村にたどり着きますが。この国道182号の起点は何と加茂町であり、京都上賀茂神社の荘園があったとされます。山城国風土記逸文によると、京都の上賀茂神社は大和国葛城から移ったとされています。やはりこの地域は鯨地名と縁が深いようです。中世の荘園が、古墳時代にさかのぼる起源をもつ可能性が伺えて非常に興味深いです。

国道182号をさらに北上すると、牛鬼がいたという伯耆国日野郡にたどり着きますので、吉備津彦は備中だけでなく備後のルートからも牛鬼そして出雲を攻めたのかもしれません。

2021年10月11日 (月)

鯨地名(島根県) 海部系神話の故郷

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鯨島

島根県松江市美保関町福浦

美保関は出雲神話では事代主神の故郷です。まず岬の先端には恵比須神社があります。美保関の湾には美保神社があり、御祭神はもちろん事代主神です。出雲国譲り神話では、事代主神はこの岬で釣りをしていたことになっています。

鳥取県の境港の向かいの福浦にも美保神社があります。御祭神は美保津姫と事代主神です。出雲国風土記島根郡に載る美保社に比定されています。同社では漁師が春と秋に「なます祭」を行うとあります。春は大根なますに鰯、秋は大根なますにイリコと鰹を炒って混ぜて食します。そして秋にはその後竜神祭が行われます。美保神社より一町ほどの海上に鯨島という島があり、「雲陽誌」によると大昔のこの海上へ鯨が集まって美保社に年頭の礼をしたそうです。その時に一頭の鯨が凝り固まって島となったので鯨島と名付けたとあります。鯨が固まって島となるという伝説は北海道や東北でも見られます。

 

鯨ヶ浦 くじらがうら

島根県美保関町諸喰

美保神社の北、外海側の雲津には多数の入り江があり、東から細尾、竹ヶ浦、鯨ヶ浦と呼ばれているそうです(平凡社地名辞典)。どの入り江が鯨ヶ浦かは未確認です。出雲国風土記に久毛等浦(くもつうら)があり、雲津浦に比定されています。風土記には十艘の船が停泊可能と記されています。隠岐に渡るための風待ち湊で、隠岐に流された源義親が脱出してこの地に上陸して暴れて平正盛に討たれたので、それにまつわる伝説が数多く残っています。また後鳥羽上皇と後醍醐廃帝が隠岐に流される際にも風待ちのために滞在したとされています。

 

久白 くじら

島根県安来市久白町

久白川流域の地名です。「雲陽誌」に鯨村と記録があります。塩津神社一帯には数多くの古墳があります。字大平の谷あいには久白廃寺跡があり単弁蓮華文鐙瓦が出土していて、奈良時代から平安時代かけてこの地に寺があったと推定されます。中仙寺墳墓群では弥生時代の四隅突出型墳墓が見つかっており、直刀や多数の鉄鏃が見つかっています。残念ながら未調査のまま破壊された墳墓も多いそうです。宮山墳墓群には出雲第二位の規模を誇る前方後円墳があったものの、学校建設のために完全に破壊されました。埴輪と葺石があり、五世紀代の古墳と推定されるそうです。この辺りは弥生時代の四隅突出型古墳と古墳時代の前方後円墳が混在する珍しい墳墓群です。

 

久代 くしろ

島根県浜田市久代町

この地域にはかつて石見国国府がありました。櫛色天蘿箇彦命神社(くしろあめのこけつひこじんじゃ)があり、延喜式に載る那賀郡の同名の社に比定されています。始めは久代の稲葉に鎮座し、底筒男命・中筒男命・上筒男命を祀っていました。明治44年には庵の上(あんのうえ)にあった大年神社を合祀しています。大年神社は恐らく大歳神を祀った神社であり、葛城山の麓には葛木御歳神社があり、静岡市の浅間神社にも大歳神が祀られていることから、この久代も鯨地名と推測されます。

益田市の久城と同じく櫛代氏が開拓した土地と考えられます。

 

 

久城 くしろ

島根県益田市久城町

益田川右岸の河口低地と遠田台地の西部一帯です。櫛代賀姫神社(くししろがひめじんじゃ)が地名の由来とされています。石見国西部の開拓者櫛代族が初めて定住した土地とされ、数多くの群集古墳があります。

櫛代賀姫神社は明星山にあり、御祭神は櫛代賀姫命です。延喜式神名帳美濃郡五座の一つです。櫛代賀姫命は櫛代族の祖神で、櫛代族が和泉国から石見に移住した時に、祖神の分霊を杜山に奉祭したとされます。天平九年(737)に益田歴短が官命によって社殿を建立し、大同元年(806)に藤原緒継が緒継浜へ社殿を移転したとされています。万寿三年(1026)の大津波で社殿が壊滅して、現在地に移転しました。

 

海部系神話の故郷

久城には櫛代賀姫命と久代の櫛色天蘿箇彦命にまつわる神話があります。女島と男島で二人は逢引きをするのだけれど、櫛色天蘿箇彦命がほっかむりをして通うので、いつしか二人はすれ違ってしまい、それが月の満ち欠けだという物です。櫛代賀姫神社が明星山にあることから、櫛代族は天文の知識を持った海部族だったと考えられます。櫛代賀姫命が太陽で、櫛色天蘿箇彦命が月、太陽と月が空の上で追いかけっこをして、月の影が移動していくことを、櫛色天蘿箇彦命の頬被りと表現したと考えられます。詩的でありながら自然をよく観察した神話です。

和泉国にも葛城山はあるので、櫛代族は和泉の葛城出身かもしれません。和泉の葛城山には八大竜王が祀られています。葛城修験では、山を二十八宿に見立てて礼拝します。やはり星座が関わっています。益田市には柿本があり、これは柿本人麻呂の終焉の地、あるいは故郷ではないかとされています。天津神神話と天体の対応関係: おかくじら (cocolog-nifty.com)にて解明したように、記紀神話は古代の星座の物語です。櫛代族、あるいは柿本氏が記紀神話の編纂に関わっているのかもしれません。櫛代造と柿本氏はともに和邇族とされているのです。

国譲り神話の原型: おかくじら (cocolog-nifty.com)で見たように、国譲り神話の原型は、鯨である事代主神を主人公とする物語であったと考えられます。出雲平野を開拓した出雲族は恐らく朝鮮半島からの移住者ですから、もともと石見と出雲には海部の櫛代族がいて、そこに農業や冶金に優れた出雲族が移住してきたのでしょう。両者は海と平野で住む地域を別々にしているので、移住は平和的に進んだことでしょう。

出雲族は櫛代族の神話を取り入れて素戔嗚尊の八岐大蛇神話や国造り、国譲りの神話を作ったと考えられます。その際に海の生き物や星座の部分は十分には理解されないで物語から脱落したと考えられます。こうして出雲ナイズされた神話が、飛鳥時代になって藤原京の朝廷に採用されて古事記と日本書紀が作られたと思われます。朝廷は天皇家のルーツが海部であることには気が付いていたようですが、葛城では伝承が失われていたため、葛城から移住した櫛代族の末裔である柿本人麻呂を編集者に入れて、海部の神話を復元しようとしたのではないかと私は推測しています。

柿本人麻呂がどこまで神話に隠された星座の知識を持っていたのかはよくわかりません。同時期に役小角が葛城修験を創始しており、葛城修験には星の信仰の要素があります。しかし役小角は朝廷から弾圧されたという伝承があります。柿本人麻呂も失脚して石見に流されたという説が江戸時代からあり、哲学者の梅原猛も「水底の歌」で力説していました。神話と天文の関わりが秘伝であるからその知識を持つ役小角と柿本人麻呂が弾圧されたのか、あるいは大和朝廷が海部の天文知識を非科学的と恥じたのか、それは今となってはわかりません。

 

鯨石

島根県邑智郡美郷町長藤

詳細不明

2021年10月 5日 (火)

鯨地名(岡山県) 温羅伝説と鯨

Okayama

久志良村 くじらむら

岡山県瀬戸内市邑久町福中

地名の由来は、因幡国岩美郡に居住した久遅羅臣の子孫が当地に移住したことにちなむとしています。鳥取県鳥取市の久志羅に居住した伊福部氏が備前にも移住して久志良という名前を残したことになります。

 

久代 くしろ

岡山県総社市久代

高梁川支流の新本川中流域に位置します。総社市秦の正木山山麓には、古墳後期の横穴式石室墳である久代大塚古墳や横口式石棺を持つ長沙2号墳などの古墳が分布しています。平安時代の和名抄に備中国下道郡十五郷の一つに釧代郷(訓代郷)があり久之呂(くしろ)の訓が付されており、総社市久代を中心とする地域に比定されています。正木山にある麻佐岐神社は延喜式にも記録されている古い神社。「吉備温故秘録」には山頂に神殿の柱石・玉垣・鳥居などがあったとしています。備中誌は末社に加茂社と竜王社を載せています。正木山の北西山麓には石畳神社があり、これも式内社です。岡山県神社誌によると祭神は経津主神です。

総社市秦には秦廃寺跡があり、飛鳥様式や白鳳様式の瓦が発掘されています。この地域に有力な豪族がいたことを伝えています。本川と高橋川の合流地点位は伊予部山があり、これは初期の天皇家が瀬戸内を放浪していた時期の名残の可能性があり、愛媛県の鯨地名で触れます。

加茂氏が信仰していたのは鯨である事代主神ですし、北海道や東北では鯨が龍と同一視されているケースもあり、正木神社も興味深いです。

 

鯨谷 くじらだに

岡山県岡山市北区下高田

岡山空港の北西2㎞くらい、低い丘陵に挟まれた細長い平野です。平凡社地名辞典によると、下高田村の枝村として鯨谷村があったそうです。下高田村の鎮守は楽々森権現(ささもり)でした。御祭神は吉備津彦命の従者の県主楽々森彦命です。鳥取県の鯨地名で見たとおり、楽々福神社(ささふく)は伯耆国に分布し、吉備津彦命や孝霊天皇を祀っています。その楽々福が備中の国では吉備津彦命の従者の名前となっています。おそらくこの鯨谷の楽々森彦命が、孝霊天皇軍の主力として牛鬼と戦い、勝利したのちに伯耆国の日野郡を所領としたのでしょう。

楽々森神社は残念ながら現存しておらず、跡地だけが残るようです。Google Mapの口コミによると、楽々森彦命は温羅伝説に登場し、吉備津彦命妃の高田姫の父親とされているそうです。桃太郎伝説の猿のモデルともいわれています。吉備津彦神社には楽々森彦命の荒魂を祀る鯉喰神社があります。上高田の鼓神社は御祭神四道将軍大吉備津彦命、御功臣遣霊彦命、県主楽楽森彦命、同御娘にして将軍御后の高田姫命とあります。この辺り一帯を治める楽々森彦命という豪族が実在したことはほぼ間違いないのではないでしょうか。そしてこの地域の地名は鯨谷でした。

 

吉備津彦の命の鬼退治

温羅(うら)とは吉備にいたとされる鬼です。村人を悩ましたので、大和から派遣された四道将軍の吉備津彦命が、温羅を退治することになりました。

吉備津彦が放った矢を温羅は石で撃ち落とします。鯨地名の周囲には矢にちなんだ地名が分布することが多く、矢のちなんだ地名は雷神と鉱山を表しているようです。二本の矢のうち一つは温羅の左目を射て温羅は片目になりました。片目は冶金の神の重要な要素です。温羅は吉備の鉱山を掌握していたのかもしれません。

温羅は雉に変身して逃げたので、五十狭芹彦命 (吉備津彦命)は鷹に変身して追いかけました。鳥に変身するのは日本武尊と同じで、河内王朝の王族の重要な要素です。さらに温羅は鯉に変身して逃げたので、五十狭芹彦命は鵜に変身して捕まえました。鵜飼もまた古来から大和朝廷の重要な部民でした。あるいは鯉に変身した温羅を楽楽森彦命が仕留めたともいわれています。

鯨地名(三重県)で見たようにダイダラボッチは鯨に変身します。あるいは鯨が陸に上がってダイダラボッチになります。この地域が鯨谷であることを勘案すると、温羅が鯉に変身するのは、ダイダラボッチ伝説の痕跡のように私には感じられます。温羅にはダイダラボッチとしての要素もあるのです。

久代で見たように、吉備には巨石の構造物が遺跡として残っています。飛鳥時代に唐と新羅を警戒して建設された城砦以外にも古い巨石信仰の形跡が見られます。巨石もまたダイダラボッチ伝説の重要な要素です。

 

  1. 鉱山資源の争奪戦
  2. 河内王朝の鳥信仰
  3. 鯨・ダイダラボッチ信仰

 

温羅伝説には複数の要素が混ざり合っており、相当に複雑な成り立ちであることがわかります。

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