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2020年10月24日 (土)

奥州安部氏と長髓彦

古墳が鯨と呼ばれていることから、どうやら古代人は平野や海に突き出した山を櫛・串・奇しと表現して敬っていたことが判明しました。櫛玉命と櫛玉姫という男女セットの神様がいて、自然神と巫女を表しているらしく、古事記や日本書紀の著者はこの二柱の神様のうち男神を饒速日尊・長髓彦に、そして女神を三炊屋姫に当てていることも分かってきました。

 

長髓彦は記紀神話では悪神とされてしまったので、表立って信仰されることがなくなりました。しかし前九年の役で滅ぼされた奥州安部氏は長髓彦の兄である安日彦(あびひこ)を祖先としていたという伝承があります。これは偽書とされる秀真伝に出てくるのであまりまともに取り扱われないのですが、一考の余地があるかもしれません。大和から遠く離れた陸奥国では、櫛玉命の信仰が根強かったのかもしれません。

先に茨城県下妻に安部宗任を祭った宗任神社があることに触れました。安部宗任は源氏と戦った俘囚の王安部頼時の三男でした。宗任は陸奥六郡の防衛ラインの一つである鳥海の柵を防御していました。宗任は前九年の役の終盤に源氏に捕らえられて都に連行されます。そこで梅の花を読んだ説話は有名ですが、その後に九州へ流されました。子孫が松浦党の海賊になったとう伝承があります。瀬戸内に分布する安部氏・安倍氏はその子孫と言われています。

陸奥国鳥海柵から落ち延びた宗任の家臣は、川を下って下妻にたどり着いたと言います。素戔嗚尊と櫛稲田姫が出会う神話を思い起こさせる話です。彼らは下妻で宗任を祀りました。それが宗任神社です。さらに宗任の子孫の別の一派は常陸国久慈郡に流れ着き、今でもその伝承を持つ人たちが常陸太田に住んでいます。なんと話が久慈の鯨が丘に戻ってきてしまいました。不思議ですね。新治国造や久自国造は物部氏なので、物部ネットワークのようなものがあって、そのネットワークを頼って移住したのかもしれません。

 

ちょっと休憩、

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坂東三十三ヶ所二十四番札所、雨引山楽法寺から筑波山の遠景。筑波山は鯨地名に囲まれています。

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茨城県笠間市の稲田神社。櫛稲田姫を祭っています。茨城県では出雲系統の神様を祭る神社は珍しいのですが、笠間の稲田神社は古い伝承を持っています。これなどは、櫛や巫女への信仰が先行してあり、後世になってから櫛稲田姫と習合した可能性があるでしょう。

笠間市の稲田と聞いてピンと来た人はいないでしょうか。そうです、ここは親鸞上人の稲田御坊跡のすぐ近くです。越後と常陸の親鸞上人の足跡が残る地域は、古代からの国津神信仰と習合しているケースが多いです。伝説では親鸞上人はこの笠間から鹿島神宮まで毎月のように通っていたことになっています。親鸞上人は古くからの信仰を大事にした人なので、鹿島神宮にお参りすることもあったのでしょうが、それ以上にこの笠間の稲田という地域が、古代からの聖地であり、鹿島と並ぶような土地であったことを示唆する伝承と思われます。

異論はあるかもしれませんが、歴史上の人物としての親鸞聖人個人は、聖徳太子を心の支えとしていました。そのためかどうか、笠間は今でも聖徳太子講が盛んな地域です。

稲田神社は坂東三十三ヶ所第二十三番札所の佐白山正福寺とも関わりが深いです。佐白山には豊城入彦命が祀られています。最初の伊勢斎宮と言われる豊鍬入姫命は豊城入彦命は同母兄妹で、崇神天皇の子供です。垂仁天皇のお兄さんです。ということは日本武尊の大伯父というわけです。坂東三十三観音は、仏教伝来以前の古代東国の信仰と深く結びついています。豊城入彦命の墓は石岡にあると言われています。

 

閑話休題、宗任が立てこもった鳥海柵というのは「とのみのさく」と読むそうです。櫛玉命の別名である「とみ」に近いです。奥州安部氏は櫛玉命を信仰していたのかもしれません。鳥海柵は岩手県奥州市水沢にありますが、近くには陸中国一ノ宮である駒形神社があります。奥宮には丹後国籠神社から勧請した宇賀御魂(豊受大神)が、里宮には事代主命が祀られています。事代主命は恵比須様ともいわれています。豊受大神が房総の物部氏から信仰されていたことにはかつて触れました。事代主命を櫛玉命・櫛玉姫の父親とする説もあります。

平安時代の北上川は深い入り江で、今の宮城県と岩手県の境目のあたりまで海だったそうなので、鳥海まで船で遡ることは容易だったでしょう。物部氏は海洋の民でしたから、遠く陸奥国まで交易のネットワークを広げていたことが推測できます。

 

だいぶ話が広がってしまったので、ここでいったんまとめますと、要点は以下の通り。

  • 久慈・久地・櫛・串を冠する聖地は日本全国にあり、起源も古い
  • そこでは荒々しい自然を表す男神(櫛玉命)と巫女を表す女神(櫛玉姫)が祀られていて、人身御供が行われていたらしい
  • 記紀神話に登場する長髓彦・登美彦はどうやらその自然神と同一で、三炊屋姫は巫女神と同一らしい
  • 東国では、この男女セットの神様を祭る信仰を今でもたどることが可能
  • 前九年・後三年の役には、宗教戦争としての面があった可能性

くじらの「くじ」が「櫛」であり、日本人の古くからの信仰のキーワードの一つらしいことが分かってきました。「ら」については研究中です。面白いことにお寺が手掛かりになりそうです。これについても成果が出ましたら、いずれ発表しようと思っています。

2020年10月17日 (土)

櫛の謎

櫛と神様の関係について深堀してみます。

 

1.氷川神社と櫛稲田姫

櫛を名前に持つ神様として最も有名なのは櫛稲田姫です。出雲の斐伊川を箸が流れ落ち、素戔嗚尊はそれを拾うことで集落があることを知り、櫛稲田姫と出会い、八岐大蛇退治へとつながります。箸は細い木の棒ですから串を連想させます。櫛稲田姫は八岐大蛇の生贄にされるすんでのところで素戔嗚尊に助けられました。

室町時代以前からの存在がたどれる氷川神社や武蔵国の出雲系神社では、櫛稲田姫が御祭神に入っているケースが多いです。素戔嗚尊の妻は複数います、しかし武蔵国は素戔嗚尊に櫛稲田姫を配する比率が非常に高いので、私はむしろ武蔵国中心部の古い主神は櫛稲田姫なのではと推測しています。

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埼玉県川口市の東本郷氷川神社

 

2.橘樹神社

櫛と神様の関係で思い当たる伝承がもう一つあります。弟橘姫です。弟橘姫とは日本武尊の奥さんです。東国で弟橘姫と出会った日本武尊は、三浦半島の走水から房総半島へ渡ろうとしますが、荒波に行く手を阻まれます。そこで弟橘姫が海に身を投げて生贄となることで、荒波は収まり、日本武尊は旅を続けることができました。

犠牲となった妻を悼んだ日本武尊は、渡った先の上総に橘樹神社を建てたと言われています。

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川崎市の子母口富士見台古墳。弟橘姫の遺品を葬ったとされる。

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川崎市の橘樹神社、日本武尊伝説を取り扱った書物の中では川崎市の橘樹神社はなぜか殆ど取り上げられることがなく、川崎市に縁がある身としては少々悲しいです。

実は川崎市の大部分は、明治まで橘樹郡と呼ばれていました。武蔵国橘樹は、日本書紀にも出てくるとても由緒ある地名です。

弟橘姫の櫛は故郷の武蔵国橘樹郡に流れ着き、土地の人が彼女を祭る橘樹神社を建てたと言われています。弟橘姫と櫛稲田姫は身に付けていたものが流れ着く、人柱になるという点が共通しています。千葉県茂原市の橘樹神社の方が日本書紀に出てきて有名なのですが、弟橘姫は恐らくは武蔵の国の神様です。橘樹郡というのは古墳時代から武蔵国にある地名ですし、川崎市の橘樹神社のすぐ近くに7世紀頃の古墳が2つあり、郡衙の遺跡も見つかっています。影向寺からは白鳳時代の瓦が発掘されています。

 

3.溝口神社・久地神社・久本神社

橘樹神社から北西に3㎞くらいのところに溝ノ口があります。そこには久地神社があります。やはり「くじ」が出てきました。溝ノ口は多摩丘陵の先端なので、これも神聖な山の一つなのでしょう。櫛の先に当たる場所に久本神社があります。近代になって複数の神社を合祀して作ったらしいのですが、久本という地名は「久地」の先端を連想させます。溝ノ口の台地はそんなに高くはありませんが、久本神社から見上げると段丘涯には迫力があって、霊地と呼んでも差し支えないなと感じます。

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川崎市の久地神社

 

神社は「みぞぐち」と読みます。溝口神社と久地神社は兄弟神社と言われています。なぜ兄弟なのかは伝承は失われているようです。私が思うに、本来は溝久地神社なのではないでしょか。なぜ溝かというと、多摩丘陵はここで切れて溝になっているからです。梶が谷の住宅地のある当たりが溝に当たります。

今では溝口神社の御祭神は天照大神ですが、元々は赤城明神でした。山岳信仰の神社であったわけで、これは溝ノ口が聖なる櫛の一つだったという補強になると思います。

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川崎市の溝口神社

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川崎市の久本神社

 

4・櫛玉命・櫛玉姫

もう一人の櫛という名前を持つ女神は櫛玉姫です。歴史を語る際には三炊屋姫と記述されることが多いです。櫛玉姫は饒速日尊の妻で、長髓彦の妹です。櫛玉姫の名前で祀っているのは奈良県明日香村の櫛玉命神社、葛城の櫛玉比女命神社、伊勢の櫛田神社などです。饒速日尊と櫛玉姫の子孫が物部氏、穂積氏とされています。あるいは饒速日尊と櫛玉姫の間から宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)が生まれて、そこから物部氏が出て来たともされています。

櫛玉姫も天孫系の妻となった地元の女性という意味で、櫛稲田姫、弟橘姫と共通しています。神様になっているわけですから、櫛玉姫には巫女的な要素もあったのでしょう。大和郡山市で櫛玉姫を祭った主人神社に人身御供の伝承が伝わっているそうです。どうやら聖なる櫛の信仰と生贄とは切っても切れないつながりがあるようです。

 

さらに櫛玉命という男の神様がいます。長髓彦とされていますが、饒速日尊を櫛玉饒速日尊と記述するケースもあります。櫛玉命と饒速日尊は場所によっては未分離なのです。さらに古代には異母兄妹が結婚するのは珍しくはなかったので、櫛玉命が櫛玉姫の兄であり、夫であるのは別に不思議でも何でもありません。

櫛玉命(長髓彦)が饒速日尊と習合しているケースは他にもあります。千葉県の印旛沼西岸に分布する鳥見神社です。これは「とみ」と読みます。登美彦は古事記や日本書紀にも載っている長髓彦の別名です。つまり印旛沼の鳥見神社は本来は櫛玉命を祀っていると言えそうです。記紀神話では長髓彦は神武天皇に歯向かった悪神にされてしまったので、妹の婿である饒速日尊に変えたのでしょうか。

 

武蔵国一ノ宮である大宮の氷川神社にはアラハバキという神様がいます。荒脛巾神と表記します。あれ?脛とは「すね」のことです。これは長髓彦のことなのでは?アラハバキには信頼できる史料がないので類推の域はでませんが、私はアラハバキは長髓彦(櫛玉命・登美彦)であると考えています。それに大宮台地もやはりかつては海に突き出す「櫛」でした。

おそらく日本全国に残る櫛では、櫛玉命と櫛玉姫を祀っていたのでしょう。櫛玉命は時に荒々しさを見せる自然を表す神様で、人身御供が行われることもあったのでしょう。

2020年10月10日 (土)

古墳はくじら?

鯨という地名が付いている古墳が多いことをご存知ですか?インターネットの検索や自分で調べた範囲では

 

  • 鯨山古墳 愛媛県今治市日高、別名串山
  • 鯨岡 茨城県行方市
  • 鯨岡 兵庫県姫路市、稲岡山古墳、住所には無いが地元では鯨岡と呼ばれている
  • 鯨岡 茨城県石岡市鯨岡町、1㎞南方に古墳群あり
  • 鯨 茨城県下妻市鯨、3㎞西方に柴崎古墳群あり、同じく北西には奥州安部氏の安部宗任を祭った宗任神社
  • 鯨ヶ丘 茨城県常陸太田市中心部、1㎞東に幡山古墳群がある、この地域は常陸国久慈郡で、久自国造の本拠地
  • くじら山 埼玉県児玉郡神川町、白岩銚子塚古墳の別名
  • 鯨井 埼玉県川越市、周辺を囲むように多数の古墳が分布
  • 久地楽 茨城県筑西市、「くじら」と読む、新治郡衙跡地、富士見古墳などがある
  • 久次良 栃木県日光市、「くじら」と読む、日光東照宮の隣地、古代豪族久次良氏の領地
  • 久白 島根県安来市。「くじら」と読む、2㎞北に塩津山古墳群、造山古墳、大成古墳がある
  • 櫛羅 奈良県御所市。「くじら」と読む、1㎞北に笛吹古墳群がある。霊山の葛城山の住所でもある。
  • 串良 鹿児島県鹿屋市串良町と鹿児島県肝属郡東串良町一帯。「くしら」と読む。唐仁大塚古墳群がある。
  • 久自神社 地図上では確認できていませんが、岡山県総社市にあるらしいです。この辺りは吉備の中心地で、日本で4位と9位の大きさを誇る古墳があります。 

 

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埼玉県行田市の前玉(埼玉)古墳群、関東地方最大級の古墳が並んでいます。武蔵国造が眠っているともいわれています。関連があるかどうかは不明ですが、近隣に菊池台くじら公園という名前の小さな公園があります。

 

各地の伝承を調べればもっとあるでしょう。確かに平野の中にポコッと現れる古墳は、遠目には鯨に似ています。鯨が海から泳いできて固まったといういわくのある場合もあります。古墳は大小複数固まっていることが多いですので、まるで鯨の親子が泳いでいるようです。「ほーら鯨さんだよ」と教えると、子供との史跡めぐりも楽しくなりそうです。

実は久慈郡は私が五歳まで育った場所です。常陸太田に残されている伝承はこうです。古代にはこの地域は海辺であった。常陸太田市街がある緩やかな台地は海の上からは鯨のように見えた。だから鯨ヶ丘なのだと。鯨という名前の古墳が多いことは、見た目が鯨に似ているからということで等閑視されてきました。でも本当にそうなのでしょうか。

特に気になるのは、常陸太田は久慈郡(くじぐん)の中心地であり、日本書紀にも出てくる久自国造(くじのくにのみやつこ)がいたこと。そして古代から霊山として敬われていた葛城山、そして古代豪族葛城氏の本拠地が他ならぬ櫛羅(くじら)という地名であることです。

 

「ら」というのは古代の美称である可能性があります。上のリストでも葛城山の櫛羅は櫛に羅という接尾語が付いたように見えます。鹿児島県の串良も串に良という接尾語が付いているようです。愛媛県今治市の鯨山古墳がかつては串山と呼ばれていたのも見逃せません。

 

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埼玉古墳。前方部から後円部を臨む。

では「くじ」とは何なのか考えてみましょう。久慈という名前の神様がいます。櫛真知命、別名を久慈真知命といいます。占いの神様と言われ、飛鳥の天香久山坐櫛真知神社、東京都青梅の武蔵御嶽神社、東京都稲城市の大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ)に祀られています。全国で数社しかありませんが、天香久山と武蔵御嶽山の神様であるというのは重要でしょう。稲城の大麻止乃豆乃天神社もすぐ近くに、大規模な多摩ニュータウン遺跡が発見されています。関東最大級の古代の瓦工場が発見されています。武蔵国分寺の瓦を焼いたことが判明しています。

仮に「くじ」は「くし」が訛ったものであると考えれば、手掛かりが沢山あります。串という地名は全国各地にたくさんあります。串崎、串本、漢字「串」を含む地名。その多くが長細い岬、もしくはリアス式海岸を表しています。串という地名の語源には様々な説がありますが、私は単純に考えてみました。海に尖った山が突き出しているのが、串のようだから。あるいは沢山の山が突き出すリアス式海岸は、髪の毛を梳く櫛のようだからです。

 

天香久山は奈良盆地に突き出しています。葛城山も大和盆地に突き出しています。常陸太田も舌状台地にあります。どうやら古代人は平野部に突き出す山に神聖さを感じたようです。

櫛が入った神様として有名なのは櫛稲田姫がいます。素戔嗚尊の奥さんです。葦原中国から天下りした素戔嗚尊は、川から箸が流れてくるのを見て、櫛稲田姫と出会います。箸は細い棒ですので櫛を連想させます。他には櫛玉命と櫛玉姫がいます。これは長髓彦(登美彦)と三炊屋姫(登美比売)の別名と言われています。長髓彦は神武天皇に歯向かって討伐された神様で、三炊屋姫は神武天皇に降伏した饒速日尊(邇芸速日命)の奥さんです。

神名に「櫛(くし)」が入るのは、「奇(くし)」つまり不思議な力を表す古代の言葉と解釈されてきました。しかし平野に突き出す山を「くし」と呼び、信仰していたと考える方が分かりやすい気もします。

 

話が饒速日尊に飛んだことには訳があります。常陸国の久自国造は物部氏の一派で、饒速日尊の末裔とされているからです。葛城山に祀られているのも饒速日尊です。どうも久慈・櫛・串というのは、文字に記される前の日本人の太古の信仰を知る手掛かりになりそうです。

とまれ、古代人は神聖な山を「くじ」と呼んでいた。これは恐らく古墳が作られるようになるよりもずっと前からでしょう。そして古墳という文化が新しくやって来た時、古墳を「くじ・くし」と呼んだのでしょう。それに接尾語の「ら」がついて、鯨と呼ばれる古墳が日本全国にできたのではないかと思います。

 

参考 鯨に関わる伝説・逸話

「くじら」から始まる地名

 

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埼玉古墳で最も古い稲荷山古墳。「稲荷山」も古墳によくついている名前です。鯨は古くは「イサナ」と呼ばれていましたので、くじら山→イサナ山→稲荷山という変遷があったのではないかと私は考えています。

 

追記

日光市に久次良町があります。日光山二荒神社を開山した勝道上人は久次良氏という古代の豪族であったらしいです。日光山もまたくじら山なのかもしれませんね。

宇都宮市の徳次郎町は、この久次良氏が移住した土地で、外久次良(とくじら)がなまって徳次郎になったという言い伝えがあるそうです。徳次郎宿で奥州街道と日光街道が分岐します。久次良氏は日光への入り口を押さえていたわけです。

 

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筑波山。上のリストの中には筑波山の周辺が3つあります(石岡、下妻、筑西)。筑波山も「くじら」に縁がある山です。

 

葛城山、筑波山、日光山という古代から神聖視されていた山が「くじら」と呼ばれていたらしいことも分かりました。

天香久山と武蔵御嶽山には久慈真知命が祀られています。この2つのお山もくじら山の候補です。新潟県の弥彦山の神様は天香久山命です。くじらにちなむ地名は弥彦山周辺には今の所見つけられてはいませんが、天香久山と同じ神様とされているので、弥彦山もまたくじら山の候補です。調べれば「くじら」と呼ばれていた神聖な山はもっと見つかりそうです。

2020年10月 3日 (土)

船橋大神宮と伊勢神宮の戦略

次に柴又から南下して小岩に至りました。JR総武線小岩駅の南に小岩神社があります。この神社は元々はもっと南の行徳にあったらしいです。今の江戸川区に当たる地域は、御家人葛西氏(豊島氏)の所領でした。院政期に葛西清重が伊勢神宮に領地を寄進し、葛西氏が本所(荘園の管理人、実質的な領主)となりました。この伊勢神宮の荘園を葛西御厨(かさいみくりや)と言います。

そのためか、小岩・行徳・浦安には豊受神社が多く分布しています。葛西御厨の領家(名目上の領主)になったのは伊勢神宮禰宜の度会氏です。度会氏は中世に外宮に祀られている豊受大神を重視する伊勢神道(度会神道)を広めました。

葛西氏が伊勢神宮に所領を寄進した理由は明らかではありません。しかしこれまでに見てきたように、下総国では古代から豊受大神が信仰されていた形跡があります(大佐倉の麻賀多神社)。下総国の豪族である葛西氏は、豊受大神を重視する度会神道に同調したのかもしれません。

 

小岩神社に祀らているのは天照大神、住吉大神、天児屋根大神、八幡大菩薩、衣通姫です。天照大神は伊勢神宮、住吉大神と八幡大菩薩は八幡神社の神様、天児屋根大神は中臣氏の祖神ですから、ここまでは蒲田の稗田神社と同じ組み合わせです。

衣通姫は関東では珍しいです。応神王朝の伝説に残る美女です。和歌山市の玉津島神社に稚日女尊とともに祀られています。あれ?そういえば稚日女尊は麻賀多神社では豊受大神の母親(推定)だったはずです。葛西御厨の成立には、下総国の古い信仰が関わっていそうですね。

小岩神社は戦国時代には五社大明神と呼ばれていたので、この五柱のセットはそのころには成立していたとみられます。

 

江戸川を渡ると千葉県市川市に入ります。ここには下総国府がありました。国府台(こうのだい)という駅があります。これは国府があった跡、もしくは鴻野(こうの)であり、日本武尊を祭った大鳥神社(鴻神社)があったからついた地名ともいわれています。船橋や市川には日本武尊の伝説が残っているので、大鳥神社説が有力であるそうです。

市川市には関東地方で最大級の八幡神社である葛飾八幡神社があります。寛平年間に宇多天皇の勅願により、下総国総鎮守八幡宮として鎮座したと言われています。宇多天皇が作った八幡神社という伝承は下総・武蔵に他にも数か所あり、なんらかの史実が反映しているようです。あるいは後世に関東に土着した宇多源氏が広めたのかもしれません。葛飾八幡は、源頼朝から篤く信仰されました。

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葛飾八幡神社の随神門。神仏混合時代には仁王門でした。

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参道から本殿を臨む。

 

総武線を挟んで南側には八幡の藪知らずがあります。これはかつて葛飾八幡は壮大な鎮守の杜を所有していて、一度迷い込むと二度と出ることはできなかったからと言われています。あるいは日本武尊がこの地に陣を敷いたともいわれています。八幡の藪知らずには平将門の家臣が眠っているという伝説もあります。葛西氏は秩父平氏で、秩父平氏には平将門の血が流れていますので、そのつながりでそのような伝説ができたのかもしれません。

もう一つ、葛飾八幡神社の特徴は、誉田別命、神功皇后と並んで玉依姫が祀られていることです。玉依姫は鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあへずのみこと)を乳母として育てて、そして妻となり、神武天皇を産んだとされています。上総一ノ宮にも祀られています。鸕鶿草葺不合尊はほとんど伝承が残っていない謎の人物(神様?)なのですが、もしかしたら東国の神様なのかもしれないと思いました。

 

さらに東に進んで船橋には船橋大神宮があります。天照大神をお祭りする神社としては、関東では最大最古です。景行天皇の四十年に日本武尊が日照りに苦しむ住民を救うために神鏡を祭ったのがはじめと言われています。元の名前は意富比神社(おほひじんじゃ)でした。

史料上も関東地方最古級で、「日本三代実録」に貞観五年(863)下総国従五位下意富比神社に正五位下を授くとあり、貞観十六年には従四位下に昇せたとあります。延長五年(927)に編纂された延喜式にも意富比神社として記されています。

意富比の意味については定説はありませんが、大炊で食物神を祀った、大日で太陽神を表すのだろうという説があります。天照大神の別名ともいわれている大日霊貴(おおひるめのむち)を表しているのかもしれません。

下総国東部の印旛郡には稚日女尊(わかひるめ)が祀られています。これが東だから朝日の神様なのでしょう。西側の葛飾郡に大日霊貴(おおひるめ)が祀られているのはバランスが良いです。これは夕日の神様でしょう。

 

船橋大神宮の由緒書きによると、船橋には12世紀に夏見御厨という伊勢神宮の荘園が置かれているそうです。葛西御厨が成立したのと同じころです。この時期は伊勢神宮の度会氏が神仏混淆の本地垂迹説に対抗して、豊受大神を最高神とする伊勢神道を編み出した時期に当たります。朝廷が弱体化し、神社やお寺も経済的な自立が求められた時代に、伊勢神宮も日本全国に残る太陽信仰を研究し、組織化できそうな豪族の信仰を取り入れようと活発に動いていたのかもしれません。

2020年9月26日 (土)

柴又八幡神社古墳と飛鳥

荏原郡とは東京湾を挟んで向かい側、足立郡と葛飾郡の八幡神社を廻る旅です。

山手線の田端駅から千住・柴又・高砂・市川にかけてはかつては東海道が走っていました。京成電車のルートです。市川には下総国府がありました。このラインには八幡神社が数多く並んでいます。

京成本線の町屋駅から、まず荒木田に行ってみました。蒲田の稗田神社の御祭神荒木田襲津彦の手掛かりを探すためです。残念ながら何もありませんでした。この辺りは空襲で徹底的に焼き払われたので、歴史をたどる手掛かりとなる物がほとんど残っていません。空襲の犠牲者の慰霊碑が置いてある神社やお寺も多くて、かなり被害がひどかったのだなと感じました。

 

荒木田から隅田川と荒川を渡ったあたりに出戸八幡神社と関原八幡神社があります。ここにはかつて千葉氏が中曽根城を作っていて、八幡神社はその守り神だったそうです。古代とは関係ありませんでした。下総には各地に千葉氏が根を張っていて、戦国時代にも武将として活躍しています。しかも交通の要衝を確保していました。それなのにどうして戦国大名にならなかったのか不思議です。

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出戸八幡(でとはちまん)の由緒

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旧愛恵園。関原八幡の近くにあります。キリスト教系慈善団体で、この地域の生活改善に取り組んでいました。20年前に活動を終了、建物がコミュニティーセンターになっています。

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関原不動大聖寺の縁起。応永年間の創立。この辺りが開発されたのは室町時代のようです。平安時代には地球が温暖化して、低い土地が海になったことがあります。これを平安海進と呼びます。この地域は古代にも街道が通っていましたが、平安海進によって一度水没し、室町時代に再び陸地になって人が戻ってきたのかもしれません。

そこから30分ほど歩くと西新井大師総持寺があります。天長三年(826)開創ですので、有名な関東地方の真言宗寺院である川崎大師(12世紀)や高幡不動(十世紀)よりもずっと古いです。本尊は十一面観世音菩薩で関東ではポピュラーな観音様です。坂東三十三ヶ所にも十一面観音は多く、芝山仁王尊もそうです。総持寺はおそらく最初は高野山とは関係なく建てられ、後から真言宗の寺院になったのだと考えられます。

 

南下して北千住へ向かいます。古代には堀切のあたりまで海が来ていました。荒川と隅田川に挟まれた三角地帯、即ち墨田区は海の底でした。浅草の東側は遠浅の海が広がっていました。良い漁場であったことでしょう。であるから、浅草寺の縁起で漁民が観音様を網で引き上げるという話ができるわけです。

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北千住はほぼゼロメートル地帯です。堤防がなければ、満ち潮で水浸しになりかねない湿地帯です。室町時代に細々と進行した東京湾の干拓事業の伝承が、やがて太田道灌の伝説にまとめられます。江戸幕府ができたことで干拓事業はより大規模に進められることになりました。

北千住の鎮守は千住神社です。延長四年(926)に伏見稲荷から分霊を勧請して稲荷神社を創立したのが始まりと言われています。集落の開始とほぼ同時期らしいです。そのころの北千住は中州だったと考えられます。9世紀には新井が海岸線で、百年経って北千住まで土砂で埋まって人が住めるようになったのでしょう。

千住神社では古くから稲荷神社と氷川神社が並んで祭祀されていて、二柱の神様がいるということで二ッ森と呼ばれていました。今回フィールドワークした地域にも、数多くの稲荷神社があります。江戸は稲荷神社が多いことで有名ですが、徳川家康による開府以前からその傾向があるのかもしれません。

前九年の役の時に、源義家は千住大橋付近で荒川を渡り、二ッ森(千住神社)に宿営したと古記録に記載されているそうです。千住神社のすぐ南に白幡八幡神社があり、源氏の宿営地という伝説が残っています。

 

荒川を渡り、葛飾区に入ります。宝町八幡宮、中原八幡宮、諏訪野八幡神社があります。宝町の地名の由来や中原八幡神社の由緒から、これらの八幡神社の創始は室町時代であるようです。

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中原八幡の由緒。京成電鉄青砥駅の横です。室町時代の創建です。

 

 

柴又は空襲の被害を逃れていて、「男はつらいよ」の撮影地として選ばれたのも、古い町並みが残る貴重な土地だったからかもしれません。ここ以外は浅草も、墨田も焼け野原になってしまったので、戦前からの町並みは下町にはほとんど残ってはいませんでした。柴又帝釈天の隣に柴又八幡神社があります。この八幡様は古墳の上に立っています。1960年代から発掘が行われ、石室の跡や、埴輪の破片も多数見つかりました。20年前には帽子をかぶった愛嬌のある表情の埴輪も見つかり、寅さん埴輪として地域の人に愛されています。

 

 

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古墳は6世紀後半の築造らしいです。敏達天皇や推古天皇の時代。柴又は養老年間(8世紀初頭)の正倉院文書にも出てくる古い町です。敏達二年創建の伝承が残る、荏原郡の磐井神社と同程度の歴史を持つ神社かもしれません。

Shibamataiseki

柴又帝釈天遺跡の説明。正倉院に紙背文書として残った養老時代の下総国葛飾郡の戸籍に、嶋俣里(しままた)として書かれています。なんとそこには孔王部刀良(あなほべとら)という男性7人と孔王部佐久良売(あなほべさくらめ)という女性2人が記録されています。奈良時代の柴又でポピュラーな名前であったようです。何たる偶然かと山田洋二監督も驚きのコメントを残しています。

 

孔王部・穴穂部は文字通り穴を掘って、土木事業をしたり、陶器の材料や鉱物を採掘する人たちだったと推測されます。冒頭の荒木田では良質の粘土が今も採取されています。先述の正倉院に残る戸籍はほとんど氏が孔王部でした。葛飾のあたりに孔王部が支配する地域があったのではないかともいわれています。部民というのはそれぞれの得意分野で朝廷に仕えます。葛飾の孔王部も陶器を税として納めたり、土木工事に従事したりしていたのでしょう。

穴穂部皇子という飛鳥時代の皇族がいます。欽明天皇の皇子です。姉が穴穂部皇女(聖徳太子の生母)で兄に崇峻天皇がいます。物部氏と親密でした。皇位に近い地位にありましたが、蘇我氏に殺されてしまいます。穴穂部皇子が殺された後に即位するのが推古天皇です。

欽明天皇ーー崇峻天皇・穴穂部皇女・穴穂部皇子

崇峻天皇の忌み名は迫瀬部(はつせべ・はせべ)でした。通常は奈良県の長谷寺のあたりに縁があった人物と考えます。しかし丈部(はせべ)氏というのは武蔵国造の有力な一派です。奈良時代には鎮守部将軍で藤原仲麻呂を討伐した丈部不破麻呂が出ています。竹芝寺伝説の元になったのではとされる人です。崇峻天皇と武蔵の丈部氏の間につながりを想定するのは無理があるでしょうか。

物部氏は下総国に基盤を持っていましたので、武蔵国造と強いつながりを持つ崇峻天皇や穴穂部皇子の一族をバックアップするのは自然です。

崇峻天皇・穴穂部皇女・穴穂部皇子は足立や葛飾のあたりに経済基盤を持つ皇族だったのかもしれません。このあたりが皇室の直轄地であったことを示唆する材料が他にもあります。足立区にある「舎人」という地名です。舎人とは皇族を守ったり雑役をする労働者のことです。足立や葛飾も、意外に中央と深いつながりを持っていたようです。東京の古代史を調べることで、日本全体の歴史もより考察が進むのではないでしょうか。

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