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2021年4月19日 (月)

宗任神社(1)

茨城県下妻市の宗任神社(むねとうじんじゃ)へお参りしてきました。御祭神は安部宗任。

 

ダウンロード -奥州安部・清原・藤原氏系図 abekeizu.pdf

 

安部宗任とは前九年の役(1051-1062)で陸奥守源頼義・義家に敗北した奥州安部一族です。奥州安倍氏は奥六郡(今の岩手県)の支配していました。鎮守府(京都の朝廷の出先機関)と融和的であったのですが、源頼義と対立し、十数年にわたる戦いの末に敗れます。

前九年の役の際の奥州安倍氏の当主は安部頼時、戦いで先頭に立って奮戦したのは長男の安部貞任でした。安部貞任は大河ドラマの「炎立つ」で村田雄浩さんが熱演されていたので覚えている方もいるかもしれません。

しかし、奥州安部氏の嫡男は三男の安部宗任だったと言われています。それは宗任の母が仙北三郡(秋田県)の長である清原氏の出身だったからです。鳥海の柵を任されていた安部宗任は途中で源氏に降伏し、筑前国宗像に流されました。連行された京都で梅の花を見せられて、見事な歌を詠んで都人を驚かせたと言われています。

 

安部宗任の家臣松本秀則と秀元は、源氏の追っ手を振り切って逃げて、会津から鬼怒川を下って下妻の豊田に流れ着いて住みつきました。そしてその地にかつての主君を偲んで宗任神社を建てたとされています。

神社の由来では神のお告げでたどり着いたことになっていますが、松本氏がこの地に土着したのは二つの理由から必然でした。それをまず松本氏と奥州藤原氏の関係、そして下妻に残る古代の信仰の痕跡から解明していきましょう。

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宗任神社参道

2021年3月22日 (月)

札所二十番ー二十一番

五日目は札所二十番鶴林寺と二十一番太龍寺へお参りしました。初日と同じでほとんど山登り。

 

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南小松島駅から横瀬西行のバスに乗り30分くらいで生名のバス停に到着。仕出川の方面へ歩いていくと鶴林寺の標識があるので、それに従って山へ入っていきます。1時間半ですが急勾配の登山道が続きます。

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登り口のミカン園から勝浦の町を遠望。

 

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水飲み大師の辺りの道しるべ。南北朝時代の町石が残る。

 

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前日からの雨が上がり、ありがたい感じの写真が取れました。

杉林の中をつづら折りに進む車道を横切りながら急こう配の参道を登っていきますと鶴林寺に到着します。

 

札所二十番 鶴林寺

霊鷲山 宝珠院

ご本尊 地蔵菩薩

仁王門は運慶の作と伝えられる金剛力士像が守っています。木々に囲まれた境内は静かで清冽な感じがしました。

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本堂。山腹の狭い土地に本堂、大師堂、三重塔が建っています。かつてこの土地に修行に訪れたお大師様は、地蔵を守る二羽の金色の鶴を見てこの地に寺を作ることにしたそうです。

鶴林寺からの山道は崩落して通行止めになっていたので、車道を下り、大井の集落に出ました。

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鶴林寺を降りたあたりで阿南市に入る。だいぶ南まで来たなという思い。

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若杉山辰砂採掘遺跡

太龍寺の登山道のわきにありました。辰砂とは水銀鉱石です。古代の石器、陶器、勾玉などと一緒に坑道の跡が見つかっています。意外なことに古代の辰砂採掘跡としては日本唯一だそうです。水銀は古墳の石棺に敷かれていました。遺体の防腐のためとも、時間とともに色が鮮やかに変化する辰砂に神聖さを感じたためともいわれています。水銀は低い技術でも分離しやすく、古代から重視されていた金属です。金メッキに不可欠なため、仏教伝来以降はさらに大量に採掘されたのは確実でしょう。

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阿波国に住んでいた忌部氏は、機織りや農業の技術をこの地に持ち込んだという伝説を持っており、技術者の集団であったようです。鉱業の技術もまた持っていたのでしょう。平城京の大仏を作るために大量の水銀が必要とされたはずですので、このあたりは奈良時代には意外に開けていたのかもしれません。

険しくはないのですが、長く続く山道を2時間くらい歩きつづけてようやく太龍寺に到着しました。

 

札所二十一番 太龍寺

捨心山 常住院

ご本尊 虚空蔵菩薩

太龍寺は空海の生涯を語るうえで非常に重要な寺院です。空海が24歳の時に記した三教指帰に「阿国大瀧岳によじのぼり、土州室戸ノ崎に勤念す、谷響きを惜しまず、明星来影す 」と書いてあります。この大瀧岳は太龍寺と室戸岬の2つの説があります。母玉依御前に会うまで七日かかったという恩山寺の伝説や、太龍寺に辰砂の鉱山があって当時から開発されていたことから推測するに、空海の修行の本拠地は太龍寺で、さらに室戸岬まで赴いて修行することもあったと考えるのが適当でしょう。

空海は大瀧岳で百日間で虚空蔵菩薩の御真言を百万遍唱える虚空蔵求聞持法という厳しい修行をして、満願の日に明けの明星が体内に入って悟りを開いたといわれています。虚空蔵求聞持法は百日間ひたすら真言を唱え続けるので、誰かに生活の面倒を見てもらわないとできません。大規模な寺院で行ったと考えるべきでしょう。となると室戸岬ではなくて太龍寺だったのではないでしょうか。

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太龍寺の山門。

非常に深い山なのですが、太龍寺の辺りは少し平らになっており、境内は広いです。西の高野山ともいわれています。おそらく空海が高野山を選んだ際には、若い頃に滞在した太龍寺を意識していたと思われます。

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太龍寺の本堂(奥)

ご本尊は勿論虚空蔵菩薩です。虚空蔵菩薩は知識を司る仏様です。金星の神様でもあります。若い女性の守護神でもあり、昔の女性の成人式である十三詣りでお参りする神様でした。

虚空蔵求聞持法を達成すると、記憶力が飛躍的に伸びるそうです。これによって空海は漢語と梵語に通じるようになったと言われています。真言を唱えることで記憶力が伸びて、言語能力も伸びたと言われても、にはかには信じがたいことです。frも虚空蔵菩薩の真言は「ノウボウアキャシャキャラバヤオンアリーキャマリボリソワカ」です。早口言葉のような感じで、活舌は良くなりそうな気はします。

密教では、天空に蓄えられた智慧と慈悲を表すと言われています。これは金剛般若経の「空観」を発展させたものです。空というのは、言語では表し切れない智慧という意味でした。それを密教では空間に知識が書き込まれていて、虚空蔵菩薩にアクセスすれば、その無尽蔵な知恵を取り出すことができると考えるようになりました。

これは「空」という言葉の連想から生まれたオカルトなのですが、それが正しいかどうかについてはここでは論じません。

虚空蔵菩薩に対応するのは地蔵菩薩です。だから札所二十番に地蔵菩薩がいて、隣の山に虚空蔵菩薩がいるのでしょうか。虚空蔵菩薩は修行者のための仏という面があり、地蔵菩薩は庶民を守ってくれる仏様です。

虚空の神様、金星の神様なので、深山幽谷の地に祀られていることが多いです。お遍路では焼山寺、太龍寺、室戸岬。京都の神護寺。意外なところでは安芸の宮島の厳島神社というのは元々は虚空蔵菩薩を祀った寺院でした。どことなく女性的な雰囲気を漂わせる優美な仏像が多いのも特徴です。剣を持っている姿は不動明王に似ていて、如意宝珠(摩尼珠)を持っているのは如意輪観音や地蔵菩薩や摩利支天と似ています。なかなかミステリアスな仏様です。

ただ、虚空蔵菩薩を祀る寺院の中には、商売本位なところもいくつかあるので、そこは変な行者につかまらないように注意してください。

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太龍寺の大師堂。本堂と大師堂、共に重層で見事でした。一日山道を歩いてたどり着いただけあって、感慨もひとしおでした。

恩山寺から太龍寺そして室戸岬の最御崎寺にかけては、史実の空海が実際に歩いた道です。千二百年前にお大師様が同じ道を歩いたのかと思うと感慨深いです。

この日は太龍寺を降りて国道195号まで歩き、バスで阿南駅に行きました。その日は徳島市に宿を取りました。今回のお遍路はここまで、最終日は神山町に戻り、神社を回りました。

2021年3月13日 (土)

札所十八番、十九番

ダウンロード - お遍路マップ札所18-23番 ohenromap1823.pdf

 

札所十八番 恩山寺

母養山 宝樹院

ご本尊 薬師如来

 

南小松島駅から歩いて一時間半くらいで札所十八番につきます。ここにはお大師様とそのお母さんの伝説が残っています。

その昔、お大師様がこの寺で修行中、母の玉依御前が讃岐から訪ねてきました。しかしこの寺は女人禁制だったため、お大師様は七日七晩この山の女人禁制を解く秘法を修め、御前を寺に招き入れて孝養を尽くしたそうです。

この物語は史実に基づいているのかもしれません。というのは、お大師様は唐に渡る前、若い頃にこの先の札所二十一番太龍寺で修行をしていました。今でいう中学生くらいで讃岐から奈良の都の大学に入学した眞魚少年ですが、大学の勉強に飽き足らず私的に出家して近畿地方や四国の修験道上で修行していました。

奈良の都で眞魚少年の世話をしていたのは、玉依御前のお兄さんに当たる阿刀大足でした。大足は大学の先生でした。なので学校を抜け出したことはすぐにお母さんには伝わったはずです。まだ高校生ぐらいですから、お母さんはとても心配したことでしょう。その息子が四国に戻ってきて修行しているということを知れば、矢も楯もたまらずに逢いに来るのは自然なことです。佐伯家は村長に当たる地位ですので、そのくらいのお金はありました。

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恩山寺から太龍寺までは私の足で二日の旅程です。当時は道も悪かったでしょうから三日くらいでしょう。太龍寺は修行道場ですので、もちろん女性は上がれませんし、険しい山の上にあります。おそらく讃岐から船で阿波に渡って小松島に上陸し、恩山寺のあたりに泊まり、太龍寺に使者を出したと考えられます。

玉依御前の使者が太龍寺に到着するのに三日、眞魚少年の説得に一日、眞魚少年が山を下りて恩山寺にたどり着くまで三日、合わせて七日かかります。このように、この説話は実話に基づいているのかもしれません。

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恩山寺の大師堂、右側は玉依御前を祀る御母公堂。玉依御前はここで剃髪したとされる。

 

ここから歩き遍路道は道路を離れてハイキングコースのような道を行きます。それほど険しくなく、自然も豊かで快適です。

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二時間くらい歩くと立江寺にたどり着きます。

 

札所十九番 立江寺

橋池山 摩尼院

ご本尊 延命地蔵菩薩

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立江寺は安産祈願のお寺として知られ、境内には立派なお堂が複数建っています。立江駅近くにあり、付近には門前町もあります。

ここは阿波の関所寺といわれ、行いの悪い人はここから先には進めなくなるそうです。それは札所二十番から二十二番までは険しい山の中にありますので、生半可な気持ちの人はそこから先を進むのは二の足を踏むという意味と思われます。

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大師堂

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本堂。市街地にある八十八ヶ所のお寺としては大きいです。

 

ここから遍路道は再び山中に入っていきます。四日目は朝に小松島を出て昼に立江寺につき、門前の定食屋でお昼を食べ、後はひたすら山に向かって歩きました。

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櫛淵で見つけた歴史学者喜田貞吉の銅像。ここの出身だそうです。

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櫛淵八幡神社。鯨マニアとしては外せません。櫛淵荘は寛元元年(1017)から石清水八幡宮領となり、八幡神社が祭祀されたそうです。そのせいか小松島は八幡神社が多いです。境内には樹齢数百年の楠木があります。

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この日は鶴林寺の登り口まで行き、バスで引き返しました。バス停の位置が変更されているので注意です!新道沿いのコメリの横になっています。

2021年3月 6日 (土)

宅宮神社

古いお遍路のルートは、十七番の井戸寺から南に折れて再び鮎喰川を渡り、徳島市内を通らずに眉山の西側を回って小松島方面へ行きます。近世になるまでは徳島市は湿地帯でまだ拓けていなかったからです。

 

眉山のふもとに地蔵院という大きな真言宗の寺院があります。安産の祈願所です。大きな池もあります。ここから歩き遍路は登山道になります。このルートは地蔵越えといわれています。

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地蔵院 ご本尊 延命地蔵菩薩

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地蔵越え、標高は150m程度だが、坂は急で滑りやすく遍路転がしの坂といえる。

 

峠で県道203号から西に分岐する林道があり、小一時間ほど下ると八万町の集落に出ます。ここに宅宮神社(えのみやじんじゃ)という古い神社があります。

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宅宮神社鳥居

今回の旅行に出る前から「変わった名前の神社だな」と何となく気になっていたのですが、読みが「えのみや」であることを知り、Fateという漫画の主人公の衛宮(えみや)と同じ名前なので俄然興味が湧いて行ってみることにしました。

 

御祭神は大苫邊尊(おおとまべのみこと)で家宅・建築の守護神。だから家を守ると書いて宅宮なのだそうです。

他には大年大神(おおとしのおおかみ)と稚武彦命(わかたけるひこのみこと)もお祀りしています。

 

この神社は延喜式に意富門麻比売神社(おおとまひめ)として名前を留める由緒ある神社です。札所一番霊山寺の奥に鎮座する大麻比古神社と名前が似ています。戦国時代に戦乱で焼けて江戸時代になって現在の場所に再建されたそうです。徳島藩主蜂須賀家から代々篤く崇拝され、今でも地域住民から大事にされている神社です。

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由緒の説明。この辺りの寺社はたいてい長曾我部元親によって焼かれたことになっています。どこまで本当なのでしょう?

社務所でご朱印と古代文字で書かれた護符をいただけました。ありがとうございました。

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境内はよく整備されていました。宮司さんも熱心な方のようで、お祭りも盛んで、資料館もあるようです(コロナでお休み中でしたが)、神代文字についてはちょっと眉唾でしたが、とても落ち着いた気持になれました。

 

この日は地蔵橋駅まで歩き、徳島市内のホテルに泊まりました。

2021年2月27日 (土)

札所十三番から十七番

二日目は神山温泉を出て、吉野川の支流鮎喰川(あぐいがわ)をひたすら下り、第十三番大日寺横の名西旅館に泊まりました。料理がおいしくボリュームもあって、大いに満足しました。名西(みょうさい)というのは変わった響きですが、これはこの地域の郡の名前です。今の神山町と石井町(今は徳島市に合併)のあたりをかつては名西郡と呼びました。古代には名方郡と呼ばれ、やがて東側が名東郡となり、西側が名西郡となりました。二日目は名西郡を端から端まで歩いたことになります。

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こんな感じの小道を歩いていく。

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やがて安喰川沿いの大きな県道に出る。車が飛ばしてくるので注意が必要。

 

三日目は札所十三番から十七番まで、5か所お参りしました。徳島県内で札所が一番固まっている場所で、遍路転がしを頑張った人へのご褒美のボーナスエリアです。

 

阿波国下一ノ宮

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阿波国の一宮で、大宣都比売命(オオゲツヒメ)を祀っています。大宣都比売命は伊耶那岐命と伊耶那美命が国生みをした際に産んだ一身四面の神である伊予之二名島即ち四国のうち、阿波国を表す神様です。葦原中国を追放されて地上へ天下りした素戔嗚尊をもてなしたのですが、その時に目や口や鼻の穴から穀物を出してそれを食べさせたので、素戔嗚尊は激怒して大宣都比売命を殺してしまいます。

しかし、大宣都比売命の死体から穀物や蚕が生まれたという神話です。大地母神の死体から農作物が生まれるというのは世界中で見られる神話の類型です。素戔嗚尊は風雨の神様ですので、これは季節をめぐらせて冬をもたらして、草木を殺し、しかし春に種を芽吹かせて大地に生命を再生させるという素戔嗚尊の神性を説明する神話です。生命が若返るためには、一度死ななければならないので、素戔嗚尊の破壊は自然にとって必要不可欠です。わけもなく暴虐をしているわけでは無いのですね。

下一ノ宮というのは、神山町に上一ノ宮があるからです。上一ノ宮が本来の大宣都比売命を祀った土地で、しかし奥深過ぎてお参りが大変だったのでこの地に下一ノ宮神社を建立したと言われています。札所一番の裏にある大麻比古神社も阿波一宮と呼ばれているのですが、名西郡の両一宮の方が正しいようです。

 

札所十三番 大日寺

大栗山 華蔵院

ご本尊 十一面観世音菩薩

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道路を挟んで向かい側が大日寺。かつては下一ノ宮神社とひとつながりの境内でした。そして十三番札所は一ノ宮神社で、大日寺が別当寺でした。

 

札所十四番 常楽寺

盛寿山 延命院

ご本尊 弥勒菩薩

大日寺から安喰川の左岸に渡り、少し歩くと小さな丘があります。その上に立つのが十四番常楽寺です。むき出しの岩肌の上にお堂が立っています。秩父霊場の龍石寺や岩之上堂を思い出します。四国八十八ヶ所で弥勒菩薩を本尊としているのは十四番常楽寺だけです。

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弥勒菩薩は未来仏で釈迦寂滅後五十六億七千万年後に現れて衆生を救うと言われています。法華経では釈迦に問いかけをする司会者の役割で登場します。法華経に登場する菩薩や羅漢は、前世に釈迦の元で修行していたという設定になっています。弥勒菩薩は実はその時には一番出来の悪い弟子だったため、悟りを開くまで時間がかかるのですが、どんな末法の世が来ても、弥勒菩薩が最後には救ってくれることになっているのです。だから悟りを開くことができなくて、六道を延々と輪廻する人も、いずれは弥勒様が救ってくれるから大丈夫というわけです。

この辺りはボーナスゾーンだけあって、参拝者にもよく行き当たります。

 

札所十五番 国分寺

薬王山 金色院

ご本尊 薬師如来

十四番から歩いて十分くらい。天平年間に聖武天皇の勅願で全国に建立された国分寺の一つ。

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本堂は修理中です。

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近くの水田で発掘されたという七重塔の礎石があります。往時の繫栄が偲ばれます。

 

天岩戸別八倉比売神社

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国分寺の近くに阿波史跡公園があります。国分寺があったことからわかるように、古代にはここに国府がありました。徳島県内では最大級の矢野古墳、宮谷古墳もあり、杉尾山の山腹にある矢野古墳をご神体とした八倉比売神社もあります。古代の竪穴式住居を再現した遊び場もあります。

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八倉比売神社も阿波一ノ宮の論社とされていて、延久二年(1070)に、この神社の祭祀を怠った国司を叱責した記録が残っているようです。古文書八倉比売本紀には天照大御神の葬儀の様子が記されています。この古文書は江戸時代になってから作られた偽書であることは明白ですが、この地は上古から阿波国の政治の中心でしたから、かつてこの地に強い勢力を持つ豪族がいて、その豪族が崇めた神様がいたのは間違いないでしょう。

拝殿に登る参道は長くて立派でして、境内も独特な感じがしました。お遍路さんも足を延ばして参拝してみる価値ありです。

 

第十六番札所 観音寺

光耀山 千手院

ご本尊 千手観世音菩薩

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古い住宅地の真ん中にあるお寺です。この辺りは国府町と呼ばれていました。かつては阿波国の政庁がありました。

このお寺には雨宿りした女性に焚火が燃え移って大火傷を負ったという伝説があります。その女性は年老いた姑をひどく折檻していたということです。お遍路にはこういう怖い伝説がたまにあります。

 

大御和神社(おおみわじんじゃ)

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国府を守る神社だったと言われています。名前からもわかるように大己貴命を祀る出雲系の神社です。八倉比売神社にも千家が書いた扁額ば残されており、この地域では出雲から来た人たちが住んでいたようです。札所十番切幡寺で見たように、古代に讃岐から物部と出雲の連合軍がやって来て、原住民の忌部氏を南に追いやったという伝説が粟嶋に残っています。物部氏は板東郡に入植したようです。出雲族は名東に入植したのかもしれません。この辺りは条里制の遺構も残り古くから豊かな土地でした。八倉比売神社に伝わるという天照大神の葬儀の伝説も、この物部出雲に負けた古い部族がいたことを表しているのかもしれません。

 

第十七番 井戸寺

瑠璃山 真福院

ご本尊 七仏薬師如来

天武天皇が白鳳二年(674)に建立した妙照寺が前身。阿波市にある大野寺は天智天皇が建立したと言われており、大海人皇子が出家したという伝承もあります。さてこれは荒唐無稽な伝説なのでしょうか?そうとも切って捨てられない事情があります。

斉明天皇の時代、朝廷は百済を救援するために朝鮮半島に遠征軍を派遣しました。その派遣軍は伊予国に停泊して兵と軍船を集めています。この遠征軍には斉明天皇、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)が参加していました。朝廷が丸ごと四国に移っていた時期があるのです。この時の朝廷の実質的な指導者は中大兄皇子で、遠征軍の総司令官は、日本書紀には記述がありませんが、大海人皇子であることは間違いないです。この後の壬申の乱における大海人皇子の手際の良さから、彼が朝廷の軍事指揮権を握っていたとみてよいでしょう。

朝廷が遠征軍の主力となる四国と山陽道の豪族の協力を得るために、寺を建立したのは十分に考えうることです。そして新羅遠征が失敗した後に、命からがら帰還した大海人皇子は、兵を帰還させるために瀬戸内の諸国を回ったのかもしれません。そして飛鳥に帰還する前に、遠征失敗の責を負い、戦死者の冥福を祈るために大野寺で出家したというのはあり得ないことではありません。

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この日は地蔵峠を越えて宅宮神社まで行ったのですが、それは次回に。

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