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2006年4月30日 (日)

復帰は10日以降

まだまだネットへの復帰は遠そうです。

今日は調べ物をするついでに薄口醤油を買ってきました。

東京で薄口醤油を探す苦労は並大抵のものではありません。

それともうひとつ、英国の調味料のマーマイト、これがなかなか見つからない。

京都にいたころは三条の明治屋で購入していたのですが、多摩地区には売っているお店が見当たりません。誰かご存じないでしょうか?

マーマイトはパンにつける調味料だとかお湯に溶かして飲むのだとかして日本で紹介され、おかげでまずいと不評判ですが(当然です)、あれは肉汁と混ぜてステーキやローストチキンにかけるソースとして使ってこそ本領を発揮します。たまに日本の料理屋でも匂いをかぐことがありますから中には知っている料理人もいるみたいです。

新しく引っ越した家はガスなので、また学生時代のように料理に精を出そうかと思っています。

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2006年4月19日 (水)

エスパー魔美DVD化!

アニメのことはここでは触れないつもりでしたが、これだけは知らせずにはいられない。

エスパー魔美のDVD-BOXが発売されます。

これは日本アニメの最高傑作の一つです。
高いけれど、女房を質に入れてでも買います!って言うか女房はいないか。

是非大勢の人に見てもらいたいです!

しかし、モデルのシーンはカットされてないだろうな・・・あれがなかったら詐欺だ(^^;
俺は訴えるぞ。
あれは只のサービスシーンではありません、作品に不可欠です。藤子F先生もそうおっしゃっていました。わざわざ水着を着せたりするのも返って嫌らしいからなるべくならよして欲しいのだが・・・

これに続いて、チンプイと21エモンのDVD化もお願いします。

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おしらせ

用事ができましたので、一週間ほど更新ができなくなります。

仕事で疲れたので今日はどうでもいい話を、
新聞で読んだのですが、人間食べ物を味わう時には、大脳の味覚を司る部分と同時に、必ず視覚を司る部分が活性化するそうです。目からの刺激と舌からの刺激が合体して「味」として感じるようにできているそうです。舌からの刺激だけでは味覚としてまともに感じられないそうです。

つまり目隠しをさせられたら味が分からなくなる、人間の味覚なんていい加減なものだ、とよく言いますが、人間が普段視覚に騙されてありもしない味を想像しているのではなくて、視覚と一緒でないと本当に味が感じられないように大脳はできているんだそうです。

見た目が変化してしまうと、味が変わったように感じられるのは、その人の味覚が鈍感だからではなくて、そもそも人間の味覚というのは目からの情報によって変わるようにできているらしいということです。面白いもんですね。

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2006年4月18日 (火)

伏見宮の誕生

陰暦 三月廿一日
 嫡系ながら、皇位が継げなくなった崇光院の第一皇子の栄仁親王は出家を余儀なくされます。栄仁親王の財産は子の治仁王に相続されました。伏見に御所領があったので伏見宮と呼ばれるようになります。
 嫡系といっても少ない財産で細々と生活していたようです。この頃は、平安時代のように皇位を嗣げなくなった皇子が即臣籍降下するということはなく、生計さえ立てば皇族のままでいることも可能でした。
 花園院(六)で出てきた康仁親王の子孫は、木寺宮として六代続いています。大覚寺統の嫡系だったからです。大覚寺統の嫡系は鎌倉幕府とも室町幕府とも良好な関係を維持されていました。
 他にも後宇多院の弟の系統として常磐井宮という宮家があります。初代の恒明親王は朝廷最大の実力者である西園寺実兼を外祖父としていましたから、西園寺家の保護を受けて宮家として存続したのでしょう。常磐井宮家も六代続いています。順徳院の皇子の系統の岩倉宮・四辻宮もあります。
 これは私の推測なのですが、第一に、摂関家が強力な間は、摂関家の血を引かない皇子は臣籍降下を余儀なくされました。また、平安時代には皇親と雖も、官職に就かなければ貴顕としての生活が維持できるほどの収入を得ることはできませんでした。しかし武家が強くなって、朝廷は有名無実化してくると、官位官職がなくても所領の相続が可能になります。そのため皇位を嗣げなかったものの父母から財産を受け継いだ親王が自活できるようになった、これが一つ。
 第二に、白河院以降、院や武家によって恣意的に皇位継承が決められてしまったために、本来なら皇位が嗣げるはずの嫡系が健在なのに皇位が継げないというような異常事態が頻発してしまった。皇位を嗣げなくなった皇子をなだめるために宮家としての存続が許可されたのではないかと思います。
 摂関家が健在であれば、宮家の乱立は他の公家が外戚になるチャンスを作りますから許さないはずなのですが、鎌倉幕府と室町幕府はその辺は無頓着なので、武家の財産均等分割の習慣に従って宮家を作って、財産の相続することを許可することになったのでしょう。
 木寺宮と常磐井宮は六世王まで続いています。大宝・養老の継嗣令によれば四世王までは皇親で、五世王は王号を称することが許されるという扱いになっています。木寺宮と常磐井宮の五代目(つまり五世王)は、そのままだと皇親ではなくなるので、後崇光院の猶子となり、親王宣下を受けています。おかげで六代目も皇親扱いとなりました(ただし応仁の乱後の混乱で宮家は六代目で断絶)。
 その当時後光厳院の系統が断絶して皇族が少なくなってしまったので、皇統が絶えることを後崇光院が心配して、世襲宮家を作って皇室の藩屏にしようとしたのだと推測できます。
 また、後崇光院が大覚寺統を身内と考えていたことが伺えて興味深いです。南朝の王子も当初は皇親として扱われています。

 一つ誤解が世上に流布していますので断っておきます。天皇の父系(男系)の子孫であれば天皇から何代離れていようとも天皇になることができるという誤解です。熊沢天皇などはその類ですね。皇位継承権があるのは、五世王(天皇から五親等)までです。これは古代の律令に明記されています。ですから当然南朝には既に皇位継承権はありません。
 では天皇から既に何代も離れてしまった伏見宮に何故皇位継承権があるのかですが、これは親王宣下を受けていたからです。天皇から五世以上離れていても、親王宣下を受けた皇族には皇位継承権がありました。ただし一代限り、その子供は改めて親王宣下を受けないと皇親にはなれません。
 つまり親王宣下を受けた皇族というのは、五世王と同じとみなすことができます。
 代替わりごとに親王宣下を受けるという世襲宮家の制度は、木寺宮と常磐井宮が親王宣下を受けた室町時代中期あたりに出来上がったと推測できるでしょう。

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2006年4月17日 (月)

花園院(七)・・・幻となった直仁親王即位

陰暦 三月廿日 土用

 貞和四年(1348)八月廿八日、武家から皇太子益仁親王践祚、直仁親王立坊あるべきことが申し入れられました。益仁親王は光厳院の第一皇子、直仁親王は花園法皇の第一皇子です。十月廿七日、天皇(光明院)が譲位され、直仁親王(訂正080114:益仁親王)が践祚されました。崇光院です。直仁親王は光厳院の猶子となられ、皇太弟となられました。
 世代的には伏見院ー後伏見院ー光厳院ー崇光院、伏見院ー花園院ー直仁親王、となりますので一つ前にバックすることになりますが、光厳院が、鎌倉幕府滅亡、建武新政の混乱、室町幕府の設立など、困難な時期に持明院統を支えてくれた花園院の恩義に報いようとしたからです。
 十一月十一日、法皇は崩御されました。五十四才。波乱の生涯でしたが、最後は息子が皇太弟となるのを見ることができました。最後の十年間はまだ室町幕府は安定していましたので、最後の日々は割合安らかにお過ごしになられたと思われます。
 しかし翌年幕府で内紛が勃発しました(観応の擾乱)。足利尊氏に対抗するために直義は南朝に降伏。直義方優勢となり、観応二年(1352)足利尊氏は和睦するために南朝に降伏。これにより南朝の後村上院(後醍醐院の第七皇子)が天下を一統することになりました。崇光院は廃位、上皇位が贈られました。直仁親王も皇太弟を廃されてしまいます。三上皇(光厳院・光明院・崇光院)と直仁親王は、男山(石清水八幡宮)の後村上院の行宮まで連行されてしまいました。
 ところが足利尊氏は再び南朝に反旗を翻しました。和戦の駆け引きとしては絶妙なのですが、観応の擾乱における尊氏の動きは近世以降彼の評価を低めることになります。義詮軍は男山を包囲。南朝軍は三上皇と直仁親王を拉致したまま賀名生まで撤退しました。
 宮廷が空になって困り果てた尊氏は僧になる予定で日野資名に養育されていた弥仁親王(光厳院の第二皇子)を急遽即位させました。後光厳院です。後光厳院は応安元年まで二十年間在位することになります。さすがに今度は尊氏・義詮も天皇を敵の手に渡すようなことはせずに、危機が迫った時にはともに京都から近江や美濃に難を避けるなどして天皇を守りました。
 ただ、そのために幕府内において後光厳院の発言力が強くなったために、後光厳院の次は、兄の崇光院の子孫ではなく、後光厳院の皇子が皇位を嗣ぐことになりました。

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2006年4月16日 (日)

花園院(六)・・・皇太子即位から落飾まで

陰暦 三月十九日

 元徳三年(1331)四月、吉田定房が天皇(後醍醐院)の倒幕計画を幕府に密告。定房卿は天皇の乳父であり、無謀な倒幕計画の失敗によって天皇が武士に害されることを心配しての密告であると考えられます。
 また、倒幕計画の中心にいた日野氏は元々持明院統の重臣でした。整理しますと、日野俊光が持明院統の重臣で、嫡男の日野資名は俊光の後を継いで皇太子(量仁親王)のために働いています。持明院統と足利氏の間を取り持ったのは資名でした。有名な日野富子は資名の子孫です。それに対して弟の日野資朝は天皇の側近として働き、正中の変で倒幕の密謀の責任者として流罪になっています。当時の公家は保険のために両統に子女を分けて出仕させていました。新院は日野氏を通して禁裏の不穏な動きを察知していた可能性が高いです。
 吉田定房には大覚寺統の中では新顔の日野氏が天皇に無謀な計画をたきつけていることに対する反感もあったと思われます。定房卿は建武の新政では内大臣に任命されているので、密告はひとえに天皇の身の上を案じてのことであることは天皇も承知していたのでしょう。
 天皇は八月二十四日に南都行幸、ついで笠置寺に遷幸されました。重なる御謀叛にしびれを切らした幕府が退位を迫ることは明白であったので、機先を制して倒幕の兵をあげたのでした。八月九日に元徳から元弘と改元があったので、これを元弘の乱と呼びます。
 九月二十日に皇太子量仁親王は践祚されました。光厳院です。院政は実父の後伏見上皇がみられることになりました。大覚寺統の邦良親王(既に薨去)御子の康仁王が親王宣下を受けて立太子しました。持明院統と大覚寺統が交互に皇位につくという約束はまだ守られていたのです。後醍醐上皇は捕らえられ、日野資名の交渉によって神器が持明院統に渡され、元弘二年三月二十二日即位の大礼が執り行われました。
 しかし翌正慶二年(133)閏二月、隠岐に配流された後醍醐院が名和長年の手引きで脱出。全国で幕府に対する反乱が起こります。三月十二日、播磨国の赤松則村の兵が迫ったので後伏見上皇・花園上皇・天皇と皇太子は六波羅北の方に幸しました。五月七日反乱軍を討伐するために上洛したはずの足利高氏軍が後醍醐上皇に帰順し、京都に攻め込みました。両上皇と天皇と皇太子は六波羅の北条氏とともに東国へ遁れようとしましたが、六波羅軍は四方を残して敗死あるいは自決してしまい、四方は反乱軍に捕らえられてしまいました。
 大覚寺統の皇太子も北条氏に守られて逃げていることに注意です。当時は皇統が、持明院統と大覚寺統(後二条院の子孫)と後醍醐院の三つに分かれていたとみなした方が実態を表しているかもしれません。後醍醐院は、持明院統と大覚寺統共通の敵になっていたわけです。武家政権に保護されている両統と、武家政権を認めない後醍醐院の戦いという構図がはっきりと出来上がっています。
 五月二十二日に伯耆から後醍醐上皇が自身の退位と光厳院の即位を取り消す詔を出されました。ただし、室町時代から江戸時代にかけては光厳院は即位したことになっていました。明治四十四年の南北朝正閏論争で政府が南朝正統を採用すると宣言しましたので、光厳院は現在では正式な天皇ではなかったことになっています。ただし在位期間からは光厳院を北朝の天皇とするのは少しおかしい気もします、厳密な南朝正統の立場に立てば廃帝であるはずです。この時点ではまだ朝廷は北朝と南朝に分かれていません。このあたりについては次回以降分析します。
 建武二年(1335)十一月廿二日、花園上皇は落飾しました。法名は遍光。翌年四月後伏見法皇崩御。しかし変転収まらず、九州に落ちのびた足利尊氏は光厳上皇の院宣を受けて上洛、天皇(後醍醐院)は比叡山に行幸。八月十五日、光厳上皇の院宣によって、後伏見院の第二皇子豊仁親王が践祚。光明院です。院政は光厳院がご覧になることになりました。室町幕府の体制が整ってから、法皇は洛西の花園の地に隠棲されました。当時は荻原法皇と通称されていたそうです。

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2006年4月15日 (土)

花園院(五)・・・誡太子書:三

陰暦 三月十八日

 易姓革命について触れている箇所を詳しく見ていきましょう。

    吾が朝は皇胤一統し、彼の外国の国の徳を以て鼎を遷し、勢によりて、鹿を逐ふに同じからず。故に徳微なりと雖も、隣国窺ゆの危なく、政乱ると雖も、異姓簒奪の恐れなし、是其の宗廟社稷の助け余国に卓礫するものなり。然るときんば、則ちわずかに先代の余風を受け、大悪の国を失うことなくんば則ち守文の良主に於いて足るべし、何ぞ必ずしも徳の唐虞におよばず、化の陸栗にひとしからざるを恨みんやと。

    (訳)我が国は、一繋がりの皇統がずっと続いていて、君主の徳や勢力で権力者が変わる国とは違う。であるから、君主の徳が薄くても、隣国に攻め滅ぼされる危険はないし、政治が乱れても、異姓簒奪の恐れはない。よっぽど悪いことをしない限り大丈夫だ。旧套を墨守していれば充分なのだ。別に聖人になろうと努力することはないだろう。

 この当時、既に同じ一族がずっと皇位を受け継いできたという意識があったことが伺えます。さらに、王家が皇位を維持できているのは、王家自身に神威のようなものがあるからであって、立派な政治をするとか、世の中に合わせて朝廷のあり方を変えると言った努力をしなくても、自然と皇統は維持できるはずだという意識が公家たちに生じていたことも見て取れると思います。
 しかし、新院はそんなことではいけないと説きます。世の中表向きは順調に進んでいるように見えても、内実が駄目になっていれば、いずれそれが外に現れて、相応の結果をももたらすはずだと予言します。

    故に孟軻、帝辛を以て一夫となし、武発の誅を待たず。薄徳を以て神器を保たんと欲ふ(ねがふ)とも、あにその理の当たる所ならんや・・・たとへ吾が異姓の窺ゆなしといふとも、宝祚の修短多く以てこれによれり、しかのみならず、中古以来兵革連綿、皇威遂に衰ふることあに悲しまざらんや。太子宜しくつらつら前代の荒廃する所以を観察せよ

    (訳)だから孟子は暴虐な商の帝辛(殷の紂王)は帝ではなくて只の一夫となったので、周の武王は只の男を攻め滅ぼしたに過ぎない(だから王を倒しても罪ではない)と説いた。人徳を修めないで、神器を保ったとしても(皇位を嗣ぐ)、暴虐をなせばたとえ我が国であっても殷周革命のようなことが起きないとは言い切れない・・・たとえ我が国に於いては皇位を異性が狙うことがなかったとしても、天子の位を順調に勤め上げられたかどうか(途中で引きずり下ろされたりしなかったかどうか)は、天子が徳の修養に努めたかどうかにかかっている。それどころか、ここ二百年ほど戦争が続き、王家の威光が衰えているのはなんと悲しいことであろうか。皇太子は何故先代の天皇たちが失政をして朝廷の威光を衰えさせてしまったのか、その理由をよく観察しなさい。

 大変厳しい歴史認識を持っておられたことが分かります。世の中が乱れれば、日本でだって易姓革命は起きるだろう。今現在朝廷が衰えているのは、昔の天皇が失政を行ったからだ、とまで言っています。
 この後もまだ厳しい言葉が続くのですが、それには触れません。七百年前に、このような醒めた目で皇統を見つめていた天皇がいたと言うことに驚かされます。花園院の戒めは、以後の皇室にずっと受け継がれました。皇室が、何も努力しなくても下々がわしらを担いでくれるわい、等とは決して思っていなかったことが分かると思います。花園院の透徹した歴史を見通す目をその後の皇室は受け継いできたのです。
 こここそが、国家は王家の所有物であり臣下は自分に付き従って当然、たとえその場しのぎの嘘をついても天皇は許されると信じて疑わなかった後白河院・後鳥羽院・後醍醐院と、北朝とその後の皇室の違いです。

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2006年4月13日 (木)

プロフィール

陰暦 三月十六日

プロフィールのページを作りました。
徐々にブログにはまりつつあるようです。

リンク集は随時充実させていくつもりです。

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2006年4月12日 (水)

花園院(四)・・・誡太子書:二

陰暦 三月十五日

 まず冒頭、君主のために国家人民があるのではなく、国家人民に尽くすのが君主の役目であると宣言されています。ただし、近代の民主制のように無条件で民衆が正しいなどと無責任なことはいわれません。正しい政治技術の必要にも触れています。しかし仁義の精神でそれを使わなければいけないのであると言われています。


    余聞く、天は蒸民を生じ、之に君を樹てて司牧するは、人物を利する所以なり。

    (訳)私はこう聞いている、天が民を生みだし、その上に君主を立てて統治をさせるのは、人の役に立つようにするためである(君主のためではない)


    下民の暗愚なる、之を導くに仁義を以てし、凡俗の無知なる、之を御するに政術を以てす、

    (訳)愚かな(迷いやすい)民衆を道徳に則って指導し、(目先の得失にとらわれて)先を見通すことができない人々を政治の技術で制御する


    苟もその才なくんば、その位に処るべからず、人臣の一官も、之を失はば猶天事を乱るといふ、鬼瞰遁るることなし、いかに況や君主の大宝をや

    (訳)君主に相応しい能力がないのならば、君主になってはいけない。ただの役人であろうとも、相応しくない人物が役職に就くと天下が乱れるという。神様の目から逃れることはできない。ましてや君主という重大な役職にいい加減な人物が就任して世の中が乱れないということがあろうか。

 次に皇太子に対して厳しい訓戒が並びます。わかりにくい慣用的な表現が多いので、口語訳だけ載せておきます。

    しかし、太子はお付きの人に育てられて民の苦しみを知らない。いつでもきらびやかな服を着て、服を縫う人の苦労を知らない。毎日ご馳走を飽きるほど食べて、働いてお金を稼ぐことの大変さを知らない。太子はまだ国家に対してなんの貢献もしていないし、民に全く恩恵を及ぼしたりしてはいない。ただ単に祖先から受け継いだ位だからというだけで、国の全てを司る重大なる職に就任したいと願っている。人徳もないのに諸侯の助けが得られると思いこみ、功労もないというのに庶民の上に立つ、全く恥ずかしいことだとは思はないのか。

 為政者に厳しい自覚を求めるのは儒学のお約束で、ここに並ぶ表現も使い古された表現ではあります。しかし、これは儒者が君主に自説を垂れているのではなく、かつて天皇であられた新院(花園院)が、これから天皇になろうという皇太子(量仁親王、後の光厳院)に授けた心がけです。実体験に即しているのであり、重みが違います。
 少し先を急ぎます。

    秦の政王(始皇帝)は強かったが滅ぼされた。隋の煬帝も唐に滅ぼされた。しかるに、我が国は大丈夫といっている者がいるが、それは間違っている。今の王家は累卵や崖の上で馬に乗るくらいに危険な状態にある。たとえ異姓(皇族以外の人間)が皇位を奪おうと望まなくても、自壊する危険性すらある。

 新院(花園院)は皇位を異姓に奪われる可能性すら否定しません。元徳二年といえば承久の乱から百年。それどころか天皇(後醍醐院)が一回目の倒幕の密謀に失敗した正中の変はつい四年前の出来事で、元弘の乱を一年後に控えています。禁裏周辺に不穏な空気がみなぎっていたさなかにこの訓戒はしたためられたのを忘れてはいけません。

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2006年4月10日 (月)

花園院(三)・・・誡太子書:一


 花園院の治績は特にありません。皆様もご存じの通り、当時の天皇というのは儀礼を言われたとおりにこなすだけの存在でした。かといって王家の意向が全く朝廷に反映されなかったというと、そうではなく、治天の君と呼ばれる天皇の父か祖父が王家の家長としての立場から、天皇や百官に指示を与えていました。院政です。花園院の在位中は父の伏見上皇と兄の後伏見上皇が健在でしたので、花園院が親政を行う機会はありませんでした。
 文保元年(1317)九月三日、伏見院が崩御され、これにより持明院統の威光が弱まりました。王家の最年長は後宇多法皇ということになり、天皇の治世も既に十年目であるということで、大覚寺統の立場が強くなりました。更に二年前の正和四年には大覚寺統に鞍替えした西園寺実兼が関東申し継ぎに復帰し朝廷最大の実力者となっていました。実兼の働きかけによって鎌倉から使者縫殿上貞重が上洛して皇太子尊治親王の践祚を迫り、文保二年に天皇は譲位されました。
 譲位されてからの花園院は、学究に励まれるのですが、兄の後伏見院から量仁親王の教育を託されます。持明院統と大覚寺統が交互に即位するという原則からすると、後醍醐院の皇太子は量仁親王ということになりますが、後宇多法皇と西園寺実兼という強力な布陣を構えた大覚寺統に押し切られて、皇太子は後二条院(既に崩御されていました)の嫡子の邦良親王に決まりました。連続して大覚寺統です。このままでは最低十数年は皇位は回ってきそうにありません。持明院統ははなはだ心細い状況に陥りました。
 新院(花園院)が譲位した翌年元応元年(1319)量仁親王は七歳でした。十月十六日の御記(日記)には量仁親王の教育方針が書かれています。


    「字と音を覚えさせるためにまず連句(俳句の前身のようなもの)からはいる。風月に耽溺してはならないが、言葉を覚えるのにはこれが一番良い。やがて志学の年(十五歳)となれば、儒学を教える。テキストとしては論語を使う・・・」

なんと、ただ単に皇太子の教育の責任者というだけではなくて、字の読み書きの段階から手ずから教育を授けていたのです。普通貴人の教育は学者を家庭教師にして行うものです。新院の学識はよほど評判が高かったのでしょう。また、言葉遊びからはいる所など、教育方針も柔軟です。主題の「誡太子書」では大変に厳しい語句が並ぶのですが、新院が甥で猶子の量仁親王に慈愛の心で接していたことが窺われます。論語を重視しているのは当時最新鋭の宋学の影響です。
 正中二年(1325)閏正月十三日、十三歳となった親王のために学問所が設けられて、新院は所長となりました。今度は教授陣を構えての学問です。
 三月廿日には皇太子邦良親王が亡くなりました。後伏見院は幕府に量仁親王立坊を運動(かなりすさまじいですね・汗)、翌年念願の量仁親王立太子を迎えます。元徳元年(1329)十七歳で量仁親王元服。時勢を見据える透徹した目を持つ新院は、来るべき厳しい世に望むための心構えを皇太子量仁親王に授けました。その宸筆が伏見宮に伝えられ、現在宮内庁書陵部に保存されています。

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2006年4月 8日 (土)

花園院(二)・・・室町院御遺領:下

 陰暦三月十一日 灌仏会

 二百余荘を含む八条院の御遺領は春華門院が伝領しました。しかし春華門院は早くになくなったので、八条院御遺領は父君の後鳥羽上皇の所有となりました。承久三年(1221)に承久の乱が起こり、後鳥羽上皇は隠岐に流されることになります。当然御領は没収され、乱後に立てられた後堀河院の父君の守貞親王(後高倉院)の所領となりました。天皇が未成年で、後高倉院が院政を開かれたからです。後高倉院の死後は、女の安嘉門院に伝領されました。
 ここまでを整理しますと。

八条院領

    鳥羽院→八条院(鳥羽院女)→春華門院(後鳥羽院女)→後鳥羽院→後高倉院→安嘉門院(後高倉院女)

 問題はこの後発生します。安嘉門院は後堀河院王女の暉子内親王(安嘉門院にとっては姪になります、室町院)を猶子としました。しかし亀山上皇は安嘉門院の猶子となったため話がややこしくなります。安嘉門院危篤の知らせを受けて、亀山上皇は急ぎ鎌倉へ使節を派遣して八条院領相続のために運動しました。その甲斐あって、八条院領は安嘉門院の死後に亀山上皇に伝わることになりました。
 もともと後嵯峨上皇が安嘉門院の財産管理をしており、後嵯峨上皇の死後は上皇の寵愛を受けていた亀山上皇が管理を受け継いでいたと考えられますから、安嘉門院の財産の一部を亀山上皇が相続することにはそれなりの根拠があったといえます。
 しかし、収まらないのが後深草上皇です。後深草院は亀山院の同母兄であるのですが、父君である後嵯峨院から疎まれました。亀山院が利発であったからとも、後嵯峨院と後深草院が同じ女御を取り合ったからだとも言われています。帝室最大の財産である八条院領が亀山院の所有となってしまいました。亀山院が安嘉門院の猶子となった時からの既定の路線であると考えられます。室町院は安嘉門院の所領を全ては相続できず、八条院領は大覚寺統の物になりました。
 しかし後高倉院は八条院領以外にも七十荘あまり御所領を持っており、それは室町院(姉の式乾門院としている史料もあります)に伝わります。ここに中書王(宗尊親王)が登場します。中書王は後深草院と亀山院の異母弟です。母親が賤しかったために脇に追いやられており、同情した室町院(式乾門院とも)に養育されます。
 しかしこの中書王が後深草上皇の猶子となり親王宣下を受けた上で(宗尊親王)征夷大将軍となることになりました。室町院の所領は宗尊親王に伝わることになっていましたが、親王の方が先に薨去されたために、室町院の所領は宙に浮きました。更にややこしいことに、室町院の財産の管理は後宇多上皇(亀山院の息子)がしていました。どうやら大覚寺統は財産管理が上手でいろいろな人から管理を任されていたようです。優秀な荘官を抱えていたのでしょう。
 室町院領は女院の死後正安三年(1300)に宗尊親王の義理の兄(年齢は下ですが)に当たる伏見上皇に相続される約束でした。しかし、後宇多上皇が大変なやり手であったらしく、嘉元元年(1303)に幕府と掛け合って、室町院遺領の半分も大覚寺統の所有にしてしまいました。この当時は亀山法皇がご存命でした。亀山法皇が嘉元三年(1305)に崩御され、大覚寺統はやっと室町院遺領のうち三箇所を持明院統に譲りました。しかし約束の半分はまだ渡していません。後宇多上皇はすごいですね。花園院も日記で後宇多上皇に触れる時だけは、嫌悪をあらわにしています。

室町院領

    権利
      後高倉院→安嘉門院(後高倉院女)→室町院(後堀河院女)→(宗尊親王)→伏見上皇(宗尊親王義兄)→禁裏(花園院)

    実際
      後高倉院→安嘉門院→室町院→(宗尊親王)→亀山法皇
      亀山法皇ー過半→後宇多上皇
      亀山法皇ー三カ所→伏見上皇

 そこで伏見上皇の御処分状が出てくるわけです。室町院遺領は全て持明院統の物になるはず、けれども訴訟が長引けば持明院統の財政が逼迫するので、せめて半分だけでも確保するように頑張って裁判をしろ、と息子達(新院と禁裏)にハッパをかけているわけです。
 大覚寺統と比べて持明院統は貧乏でした。世渡り下手といって良いと思います。しかし世渡り下手が最終的勝利を手にしたというのが以降の皇室の原体験になったと私は思っています。では次は「誡太子書」を分析してみようと思います。


    ※前日に八条院領が両統の間で奪い合いになったと書きましたが、正確に言うと間違っていました。お詫びします。

参考文献:「花園天皇」岩橋小弥太著、吉川弘文館、辞典類は省略

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2006年4月 7日 (金)

花園院(一)・・・室町院御遺領:上

 陰暦三月十日 法然上人誕生会

 偉大なる常識人というテーマで普通の感覚を持っていたが故に歴史に大きな足跡を残した人物を取り上げていこうと思います。まず一人目は花園院です。

  

    花園院、伏見院の第四皇子、母は左大臣洞院実雄の女、顕親門院季子、御諱富仁。
    ・永仁五年(1297)七月二十五日御誕生。
    ・正安三年(1301)八月廿四日、兄後伏見上皇の猶子として、大覚寺統の後二条天皇の皇太子として立てられる。
    ・延慶元年(1308)後二条天皇崩御の後を受けて践祚。皇太子として大覚寺統の尊治親王(後醍醐院)を立てる。
    ・文保二年(1318)二月廿六日尊治親王に譲位。
    ・建武二年(1335)十一月廿二日法勝寺の円観慧鎮を戒師として落飾(出家)、法名遍行。
    ・貞和四年(1348)十一月十一日崩御、五十二歳。

 持明院統と大覚寺統の抗争最盛期に皇位につかれた方です。まれに見る好学の君主で、兄の後伏見上皇から量仁親王(光厳院)の教育を託され、情熱を傾けました。花園院の生き方と思想は、その後の帝室に大きな影響を与えたと考えられます。
 といっても、今日は高邁な思想には触れずに、まずは当時の帝室の財布の中身から入ります。父伏見院の御領御処分状が残されています。要約しますと、

    一、播磨国 一、長講堂領
      已上、新院(後伏見院)が御管領し、ゆくゆくは禁裏(花園院)に譲ること。
    一、法金剛院領
      新院御管領
    一、室町院御遺領のこと
      禁裏御管領。大覚寺統に所有権が移っている分も、本来は全て持明院統の所有地であり鎌倉へ訴え出れば持明院統に所有権が全て戻るはずである。訴訟が長引いた場合、半分だけでも回復するべきである・・・
 昔の人も財産で苦労していたことが偲ばれます。この御処分状からは、室町院御遺領が持明院統と大覚寺統の間で係争状態にあったことが分かります。  室町院御遺領というのは、八条院あき子(目に章)の所領です。八条院は鳥羽院最愛の娘で、鳥羽院の遺領のほとんどを相続しました。実質的に院政期の日本で一番の財産家ということになります。未婚でしたので、以仁王を猶子として養育。以仁王が反平家の兵を挙げた時、金銭的に援助したとされています。また源行家は八条院の蔵人(直属の家来)であり、源頼朝に京都状勢を伝えた下河辺行平は八条院領の荘官でした。つまり平家打倒と鎌倉幕府設立の中心人物です。  以仁王の死後はその王女が継ぐことになっていましたが、王女が早世。その後後鳥羽院の王女昇子内親王(春華門院)を猶子としました。八条院がなくなったあと、財産のほとんどは春華門院に伝わります。これが何故持明院統と大覚寺統の間で奪い合いになったのかは明日説明します。

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