陰暦三月十一日 灌仏会
二百余荘を含む八条院の御遺領は春華門院が伝領しました。しかし春華門院は早くになくなったので、八条院御遺領は父君の後鳥羽上皇の所有となりました。承久三年(1221)に承久の乱が起こり、後鳥羽上皇は隠岐に流されることになります。当然御領は没収され、乱後に立てられた後堀河院の父君の守貞親王(後高倉院)の所領となりました。天皇が未成年で、後高倉院が院政を開かれたからです。後高倉院の死後は、女の安嘉門院に伝領されました。
ここまでを整理しますと。
八条院領
鳥羽院→八条院(鳥羽院女)→春華門院(後鳥羽院女)→後鳥羽院→後高倉院→安嘉門院(後高倉院女)
問題はこの後発生します。安嘉門院は後堀河院王女の暉子内親王(安嘉門院にとっては姪になります、室町院)を猶子としました。しかし亀山上皇は安嘉門院の猶子となったため話がややこしくなります。安嘉門院危篤の知らせを受けて、亀山上皇は急ぎ鎌倉へ使節を派遣して八条院領相続のために運動しました。その甲斐あって、八条院領は安嘉門院の死後に亀山上皇に伝わることになりました。
もともと後嵯峨上皇が安嘉門院の財産管理をしており、後嵯峨上皇の死後は上皇の寵愛を受けていた亀山上皇が管理を受け継いでいたと考えられますから、安嘉門院の財産の一部を亀山上皇が相続することにはそれなりの根拠があったといえます。
しかし、収まらないのが後深草上皇です。後深草院は亀山院の同母兄であるのですが、父君である後嵯峨院から疎まれました。亀山院が利発であったからとも、後嵯峨院と後深草院が同じ女御を取り合ったからだとも言われています。帝室最大の財産である八条院領が亀山院の所有となってしまいました。亀山院が安嘉門院の猶子となった時からの既定の路線であると考えられます。室町院は安嘉門院の所領を全ては相続できず、八条院領は大覚寺統の物になりました。
しかし後高倉院は八条院領以外にも七十荘あまり御所領を持っており、それは室町院(姉の式乾門院としている史料もあります)に伝わります。ここに中書王(宗尊親王)が登場します。中書王は後深草院と亀山院の異母弟です。母親が賤しかったために脇に追いやられており、同情した室町院(式乾門院とも)に養育されます。
しかしこの中書王が後深草上皇の猶子となり親王宣下を受けた上で(宗尊親王)征夷大将軍となることになりました。室町院の所領は宗尊親王に伝わることになっていましたが、親王の方が先に薨去されたために、室町院の所領は宙に浮きました。更にややこしいことに、室町院の財産の管理は後宇多上皇(亀山院の息子)がしていました。どうやら大覚寺統は財産管理が上手でいろいろな人から管理を任されていたようです。優秀な荘官を抱えていたのでしょう。
室町院領は女院の死後正安三年(1300)に宗尊親王の義理の兄(年齢は下ですが)に当たる伏見上皇に相続される約束でした。しかし、後宇多上皇が大変なやり手であったらしく、嘉元元年(1303)に幕府と掛け合って、室町院遺領の半分も大覚寺統の所有にしてしまいました。この当時は亀山法皇がご存命でした。亀山法皇が嘉元三年(1305)に崩御され、大覚寺統はやっと室町院遺領のうち三箇所を持明院統に譲りました。しかし約束の半分はまだ渡していません。後宇多上皇はすごいですね。花園院も日記で後宇多上皇に触れる時だけは、嫌悪をあらわにしています。
室町院領
権利
後高倉院→安嘉門院(後高倉院女)→室町院(後堀河院女)→(宗尊親王)→伏見上皇(宗尊親王義兄)→禁裏(花園院)
実際
後高倉院→安嘉門院→室町院→(宗尊親王)→亀山法皇
亀山法皇ー過半→後宇多上皇
亀山法皇ー三カ所→伏見上皇
そこで伏見上皇の御処分状が出てくるわけです。室町院遺領は全て持明院統の物になるはず、けれども訴訟が長引けば持明院統の財政が逼迫するので、せめて半分だけでも確保するように頑張って裁判をしろ、と息子達(新院と禁裏)にハッパをかけているわけです。
大覚寺統と比べて持明院統は貧乏でした。世渡り下手といって良いと思います。しかし世渡り下手が最終的勝利を手にしたというのが以降の皇室の原体験になったと私は思っています。では次は「誡太子書」を分析してみようと思います。
※前日に八条院領が両統の間で奪い合いになったと書きましたが、正確に言うと間違っていました。お詫びします。
参考文献:「花園天皇」岩橋小弥太著、吉川弘文館、辞典類は省略
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