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2006年4月17日 (月)

花園院(七)・・・幻となった直仁親王即位

陰暦 三月廿日 土用

 貞和四年(1348)八月廿八日、武家から皇太子益仁親王践祚、直仁親王立坊あるべきことが申し入れられました。益仁親王は光厳院の第一皇子、直仁親王は花園法皇の第一皇子です。十月廿七日、天皇(光明院)が譲位され、直仁親王(訂正080114:益仁親王)が践祚されました。崇光院です。直仁親王は光厳院の猶子となられ、皇太弟となられました。
 世代的には伏見院ー後伏見院ー光厳院ー崇光院、伏見院ー花園院ー直仁親王、となりますので一つ前にバックすることになりますが、光厳院が、鎌倉幕府滅亡、建武新政の混乱、室町幕府の設立など、困難な時期に持明院統を支えてくれた花園院の恩義に報いようとしたからです。
 十一月十一日、法皇は崩御されました。五十四才。波乱の生涯でしたが、最後は息子が皇太弟となるのを見ることができました。最後の十年間はまだ室町幕府は安定していましたので、最後の日々は割合安らかにお過ごしになられたと思われます。
 しかし翌年幕府で内紛が勃発しました(観応の擾乱)。足利尊氏に対抗するために直義は南朝に降伏。直義方優勢となり、観応二年(1352)足利尊氏は和睦するために南朝に降伏。これにより南朝の後村上院(後醍醐院の第七皇子)が天下を一統することになりました。崇光院は廃位、上皇位が贈られました。直仁親王も皇太弟を廃されてしまいます。三上皇(光厳院・光明院・崇光院)と直仁親王は、男山(石清水八幡宮)の後村上院の行宮まで連行されてしまいました。
 ところが足利尊氏は再び南朝に反旗を翻しました。和戦の駆け引きとしては絶妙なのですが、観応の擾乱における尊氏の動きは近世以降彼の評価を低めることになります。義詮軍は男山を包囲。南朝軍は三上皇と直仁親王を拉致したまま賀名生まで撤退しました。
 宮廷が空になって困り果てた尊氏は僧になる予定で日野資名に養育されていた弥仁親王(光厳院の第二皇子)を急遽即位させました。後光厳院です。後光厳院は応安元年まで二十年間在位することになります。さすがに今度は尊氏・義詮も天皇を敵の手に渡すようなことはせずに、危機が迫った時にはともに京都から近江や美濃に難を避けるなどして天皇を守りました。
 ただ、そのために幕府内において後光厳院の発言力が強くなったために、後光厳院の次は、兄の崇光院の子孫ではなく、後光厳院の皇子が皇位を嗣ぐことになりました。

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コメント

>観応二年(1352)足利尊氏は和睦するために南朝に降伏。

これをやったのは尊氏の判断ミスだったと思います。

これをやったことで、北朝を守ることができず、力不足なのを公表するようなものですし、都合が悪くなったら南朝に降ればいいと
部下に推奨しているようなものですしね。

ところでこちらからもリンクさしてもらってよろしいでしょうか?

 篠村で反鎌倉を決意したのと、竹之下で反後醍醐院の旗幟を鮮明にした時は、やむを得ない事情があったと思いますが、南朝に降伏したのは少々節操がなかったというべきかもしれません。
 ただ、なぜ尊氏方が簡単に三上皇と皇太子の連行を許してしまったのか、この当たりはもっと調べたいと思っています。何か事情があったのかもしれません。

 リンクの方、喜んで。

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