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2006年4月10日 (月)

花園院(三)・・・誡太子書:一


 花園院の治績は特にありません。皆様もご存じの通り、当時の天皇というのは儀礼を言われたとおりにこなすだけの存在でした。かといって王家の意向が全く朝廷に反映されなかったというと、そうではなく、治天の君と呼ばれる天皇の父か祖父が王家の家長としての立場から、天皇や百官に指示を与えていました。院政です。花園院の在位中は父の伏見上皇と兄の後伏見上皇が健在でしたので、花園院が親政を行う機会はありませんでした。
 文保元年(1317)九月三日、伏見院が崩御され、これにより持明院統の威光が弱まりました。王家の最年長は後宇多法皇ということになり、天皇の治世も既に十年目であるということで、大覚寺統の立場が強くなりました。更に二年前の正和四年には大覚寺統に鞍替えした西園寺実兼が関東申し継ぎに復帰し朝廷最大の実力者となっていました。実兼の働きかけによって鎌倉から使者縫殿上貞重が上洛して皇太子尊治親王の践祚を迫り、文保二年に天皇は譲位されました。
 譲位されてからの花園院は、学究に励まれるのですが、兄の後伏見院から量仁親王の教育を託されます。持明院統と大覚寺統が交互に即位するという原則からすると、後醍醐院の皇太子は量仁親王ということになりますが、後宇多法皇と西園寺実兼という強力な布陣を構えた大覚寺統に押し切られて、皇太子は後二条院(既に崩御されていました)の嫡子の邦良親王に決まりました。連続して大覚寺統です。このままでは最低十数年は皇位は回ってきそうにありません。持明院統ははなはだ心細い状況に陥りました。
 新院(花園院)が譲位した翌年元応元年(1319)量仁親王は七歳でした。十月十六日の御記(日記)には量仁親王の教育方針が書かれています。


    「字と音を覚えさせるためにまず連句(俳句の前身のようなもの)からはいる。風月に耽溺してはならないが、言葉を覚えるのにはこれが一番良い。やがて志学の年(十五歳)となれば、儒学を教える。テキストとしては論語を使う・・・」

なんと、ただ単に皇太子の教育の責任者というだけではなくて、字の読み書きの段階から手ずから教育を授けていたのです。普通貴人の教育は学者を家庭教師にして行うものです。新院の学識はよほど評判が高かったのでしょう。また、言葉遊びからはいる所など、教育方針も柔軟です。主題の「誡太子書」では大変に厳しい語句が並ぶのですが、新院が甥で猶子の量仁親王に慈愛の心で接していたことが窺われます。論語を重視しているのは当時最新鋭の宋学の影響です。
 正中二年(1325)閏正月十三日、十三歳となった親王のために学問所が設けられて、新院は所長となりました。今度は教授陣を構えての学問です。
 三月廿日には皇太子邦良親王が亡くなりました。後伏見院は幕府に量仁親王立坊を運動(かなりすさまじいですね・汗)、翌年念願の量仁親王立太子を迎えます。元徳元年(1329)十七歳で量仁親王元服。時勢を見据える透徹した目を持つ新院は、来るべき厳しい世に望むための心構えを皇太子量仁親王に授けました。その宸筆が伏見宮に伝えられ、現在宮内庁書陵部に保存されています。

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