2025年7月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ

« 花園院(五)・・・誡太子書:三 | トップページ | 花園院(七)・・・幻となった直仁親王即位 »

2006年4月16日 (日)

花園院(六)・・・皇太子即位から落飾まで

陰暦 三月十九日

 元徳三年(1331)四月、吉田定房が天皇(後醍醐院)の倒幕計画を幕府に密告。定房卿は天皇の乳父であり、無謀な倒幕計画の失敗によって天皇が武士に害されることを心配しての密告であると考えられます。
 また、倒幕計画の中心にいた日野氏は元々持明院統の重臣でした。整理しますと、日野俊光が持明院統の重臣で、嫡男の日野資名は俊光の後を継いで皇太子(量仁親王)のために働いています。持明院統と足利氏の間を取り持ったのは資名でした。有名な日野富子は資名の子孫です。それに対して弟の日野資朝は天皇の側近として働き、正中の変で倒幕の密謀の責任者として流罪になっています。当時の公家は保険のために両統に子女を分けて出仕させていました。新院は日野氏を通して禁裏の不穏な動きを察知していた可能性が高いです。
 吉田定房には大覚寺統の中では新顔の日野氏が天皇に無謀な計画をたきつけていることに対する反感もあったと思われます。定房卿は建武の新政では内大臣に任命されているので、密告はひとえに天皇の身の上を案じてのことであることは天皇も承知していたのでしょう。
 天皇は八月二十四日に南都行幸、ついで笠置寺に遷幸されました。重なる御謀叛にしびれを切らした幕府が退位を迫ることは明白であったので、機先を制して倒幕の兵をあげたのでした。八月九日に元徳から元弘と改元があったので、これを元弘の乱と呼びます。
 九月二十日に皇太子量仁親王は践祚されました。光厳院です。院政は実父の後伏見上皇がみられることになりました。大覚寺統の邦良親王(既に薨去)御子の康仁王が親王宣下を受けて立太子しました。持明院統と大覚寺統が交互に皇位につくという約束はまだ守られていたのです。後醍醐上皇は捕らえられ、日野資名の交渉によって神器が持明院統に渡され、元弘二年三月二十二日即位の大礼が執り行われました。
 しかし翌正慶二年(133)閏二月、隠岐に配流された後醍醐院が名和長年の手引きで脱出。全国で幕府に対する反乱が起こります。三月十二日、播磨国の赤松則村の兵が迫ったので後伏見上皇・花園上皇・天皇と皇太子は六波羅北の方に幸しました。五月七日反乱軍を討伐するために上洛したはずの足利高氏軍が後醍醐上皇に帰順し、京都に攻め込みました。両上皇と天皇と皇太子は六波羅の北条氏とともに東国へ遁れようとしましたが、六波羅軍は四方を残して敗死あるいは自決してしまい、四方は反乱軍に捕らえられてしまいました。
 大覚寺統の皇太子も北条氏に守られて逃げていることに注意です。当時は皇統が、持明院統と大覚寺統(後二条院の子孫)と後醍醐院の三つに分かれていたとみなした方が実態を表しているかもしれません。後醍醐院は、持明院統と大覚寺統共通の敵になっていたわけです。武家政権に保護されている両統と、武家政権を認めない後醍醐院の戦いという構図がはっきりと出来上がっています。
 五月二十二日に伯耆から後醍醐上皇が自身の退位と光厳院の即位を取り消す詔を出されました。ただし、室町時代から江戸時代にかけては光厳院は即位したことになっていました。明治四十四年の南北朝正閏論争で政府が南朝正統を採用すると宣言しましたので、光厳院は現在では正式な天皇ではなかったことになっています。ただし在位期間からは光厳院を北朝の天皇とするのは少しおかしい気もします、厳密な南朝正統の立場に立てば廃帝であるはずです。この時点ではまだ朝廷は北朝と南朝に分かれていません。このあたりについては次回以降分析します。
 建武二年(1335)十一月廿二日、花園上皇は落飾しました。法名は遍光。翌年四月後伏見法皇崩御。しかし変転収まらず、九州に落ちのびた足利尊氏は光厳上皇の院宣を受けて上洛、天皇(後醍醐院)は比叡山に行幸。八月十五日、光厳上皇の院宣によって、後伏見院の第二皇子豊仁親王が践祚。光明院です。院政は光厳院がご覧になることになりました。室町幕府の体制が整ってから、法皇は洛西の花園の地に隠棲されました。当時は荻原法皇と通称されていたそうです。

« 花園院(五)・・・誡太子書:三 | トップページ | 花園院(七)・・・幻となった直仁親王即位 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 花園院(六)・・・皇太子即位から落飾まで:

« 花園院(五)・・・誡太子書:三 | トップページ | 花園院(七)・・・幻となった直仁親王即位 »