伏見宮の誕生
陰暦 三月廿一日
嫡系ながら、皇位が継げなくなった崇光院の第一皇子の栄仁親王は出家を余儀なくされます。栄仁親王の財産は子の治仁王に相続されました。伏見に御所領があったので伏見宮と呼ばれるようになります。
嫡系といっても少ない財産で細々と生活していたようです。この頃は、平安時代のように皇位を嗣げなくなった皇子が即臣籍降下するということはなく、生計さえ立てば皇族のままでいることも可能でした。
花園院(六)で出てきた康仁親王の子孫は、木寺宮として六代続いています。大覚寺統の嫡系だったからです。大覚寺統の嫡系は鎌倉幕府とも室町幕府とも良好な関係を維持されていました。
他にも後宇多院の弟の系統として常磐井宮という宮家があります。初代の恒明親王は朝廷最大の実力者である西園寺実兼を外祖父としていましたから、西園寺家の保護を受けて宮家として存続したのでしょう。常磐井宮家も六代続いています。順徳院の皇子の系統の岩倉宮・四辻宮もあります。
これは私の推測なのですが、第一に、摂関家が強力な間は、摂関家の血を引かない皇子は臣籍降下を余儀なくされました。また、平安時代には皇親と雖も、官職に就かなければ貴顕としての生活が維持できるほどの収入を得ることはできませんでした。しかし武家が強くなって、朝廷は有名無実化してくると、官位官職がなくても所領の相続が可能になります。そのため皇位を嗣げなかったものの父母から財産を受け継いだ親王が自活できるようになった、これが一つ。
第二に、白河院以降、院や武家によって恣意的に皇位継承が決められてしまったために、本来なら皇位が嗣げるはずの嫡系が健在なのに皇位が継げないというような異常事態が頻発してしまった。皇位を嗣げなくなった皇子をなだめるために宮家としての存続が許可されたのではないかと思います。
摂関家が健在であれば、宮家の乱立は他の公家が外戚になるチャンスを作りますから許さないはずなのですが、鎌倉幕府と室町幕府はその辺は無頓着なので、武家の財産均等分割の習慣に従って宮家を作って、財産の相続することを許可することになったのでしょう。
木寺宮と常磐井宮は六世王まで続いています。大宝・養老の継嗣令によれば四世王までは皇親で、五世王は王号を称することが許されるという扱いになっています。木寺宮と常磐井宮の五代目(つまり五世王)は、そのままだと皇親ではなくなるので、後崇光院の猶子となり、親王宣下を受けています。おかげで六代目も皇親扱いとなりました(ただし応仁の乱後の混乱で宮家は六代目で断絶)。
その当時後光厳院の系統が断絶して皇族が少なくなってしまったので、皇統が絶えることを後崇光院が心配して、世襲宮家を作って皇室の藩屏にしようとしたのだと推測できます。
また、後崇光院が大覚寺統を身内と考えていたことが伺えて興味深いです。南朝の王子も当初は皇親として扱われています。
一つ誤解が世上に流布していますので断っておきます。天皇の父系(男系)の子孫であれば天皇から何代離れていようとも天皇になることができるという誤解です。熊沢天皇などはその類ですね。皇位継承権があるのは、五世王(天皇から五親等)までです。これは古代の律令に明記されています。ですから当然南朝には既に皇位継承権はありません。
では天皇から既に何代も離れてしまった伏見宮に何故皇位継承権があるのかですが、これは親王宣下を受けていたからです。天皇から五世以上離れていても、親王宣下を受けた皇族には皇位継承権がありました。ただし一代限り、その子供は改めて親王宣下を受けないと皇親にはなれません。
つまり親王宣下を受けた皇族というのは、五世王と同じとみなすことができます。
代替わりごとに親王宣下を受けるという世襲宮家の制度は、木寺宮と常磐井宮が親王宣下を受けた室町時代中期あたりに出来上がったと推測できるでしょう。
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