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2006年5月27日 (土)

長生き遺伝子を探せ(二)・・・宇多天皇の一族

陰暦 五月朔日

宇多天皇には16人以上皇子女がいたことが分かっていますが、その中で七十才を超えたのは藤原胤子との間に設けた敦実親王だけでした。敦実親王には4人子供がいます。長男が倫子の父である源雅信(73才)、つづいて源重信(73才)、大僧正寛朝(82才)、勧修寺大僧正雅度(88才)、この長生きオンパレードは遺伝の力と言ってもいいでしょう。

醍醐天皇は敦実親王の同母兄です。ただし醍醐天皇は45才で崩御されています。他に兄が2人いますが40代です。同母妹(姉?)の柔子内親王は67才以上であり、70才を超えた可能性があります。

醍醐天皇には20人前後の皇子女がいます。皇位を継いだ藤原穏子所生の朱雀天皇と村上天皇はそれぞれ30才、41才です。源周子とのいだには8人皇子女がいて、そのうち都子内親王が76才まで生きています。同母弟の源高明は68才まで生きています。源高明の娘の明子は80才を超えています。明子の息子である藤原頼宗は73才です。醍醐天皇にも長生き遺伝子が隠れていて、都子内親王と源高明に伝わったと言えるでしょう。

宇多天皇は64才まで生きています。宇多天皇には同母兄弟が6人いました。妹の綏子内親王は70才まで生きていた可能性があります。

宇多天皇の父は光孝天皇で、母は班子女王ですが、両方とも70才の前で崩御されていて、ここで途絶えてしまいます。光孝天皇の父母と祖父母には長命の人物はいません。班子女王の父は仲野親王で、この方は76才まで生きています。仲野親王は桓武天皇の皇子です。仲野親王の世代の長生き遺伝子発現にはメンデルの法則がきれいに現れており、私はこの一族には何らかの長生きを可能にした遺伝子が存在することを確信しました。

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2006年5月25日 (木)

唐に憧れた奈良時代の貴族

昔に別の場所に書いたものの転載。

陰暦 四月廿八日
 まず、白村江の戦いに大敗北をした日本は、唐と新羅が攻めてくることを警戒していました。同時に朝鮮半島における足がかりを奪還する機会もうかがっていました。
 外国と戦うためには、全国規模で兵隊と物資を集める組織が必要です。唐と新羅はいつ攻めてくるか分からないので(日本が朝鮮半島に攻め込めたと言うことは向こうも攻めてこれると言うこと)常時警戒が必要です。日本は隋唐の律令制度を参考にして、全国の兵隊と物資を動員できる体制を整えました。道路や城塞も整備されました。これが一つ。
 唐と新羅が対立関係に入ったことと、唐の軍事力の矛先が西域に向かったことで(イスラムという新たな勢力が現れたから)、日本としては支那ばりの大軍を維持する必要性は薄れてきました。そこで、余った国力を国分寺建立や東大寺の大仏建立に傾けました。これは仏教に入れ込んで大規模な仏教施設を次々と建立した北魏や六朝文化の真似事です。これが二つ。
 かつての日本と一緒ですが、中進国において、始めは戦争のために整備された国家総動員態勢が、平和時に社会インフラの整備用に有効に働くという例です。しかしこれまた今の日本やナチスドイツ同様に、いつまでも続きません。ふくれすぎた経済の政府部門は非効率となり、逆に経済を圧迫します。
聖武天皇の時代と孝謙天皇の時代には、貴族や地方豪族に官位や恩給が乱発されています。ばらまき行政ですね。両人としては、豊かで徳のある天子が万民に恩恵を施しているつもりだったのでしょう。財政再建は光仁天皇(天智天皇の孫で桓武天皇の父親)の主要課題となります。
 六朝の政権交代を見ると、従兄弟や外戚による皇位簒奪がパターンになっています。これを真似しようとしたのが藤原仲麻呂。仲麻呂は孝謙上皇の従兄でしたから、その当時の支那の感覚では十分に皇帝になる資格がありました。新羅征伐の大動員をかけたり、自家薬籠中の人物を皇位につけたり(淳仁天皇)、官制の再編成を繰り返したり、仲麻呂は新の王莽や六朝の簒奪者の行動を忠実になぞっています。このような人物が出てきたのも支那への没入が原因です。これが三つ。
 支那、あるいは支那の国家制度の利点と欠点を遺憾なく発揮したのが奈良時代であったと私は考えます。
 それと、これは光仁天皇の時代のことですが、唐の使節が来朝して、光仁天皇が百官の前で臣従の礼を取りました。おそらく三拝九叩頭をしたのでしょう。これは当時の日本第一の学者であある石上宅嗣の主張に従った物でした。傍系の皇子として60年間息を潜めて生き残った光仁天皇としては、別に屁でもなかったと私は思いますが、あまりにおいたわしいと嘆かぬ者はいなかったと言うことです。「続日本紀」では「あるひと」がこれに強硬に反対したと伝えられていますが、これは皇太子の山部親王(桓武天皇)でしょう。このような主張を学者が唱えて、それがいやいやながらも通ってしまうことが、奈良時代の朝廷の雰囲気を表しています。
 光仁天皇が支那の使節に臣下の礼を取ったことは、昭和天皇のマッカーサー訪問以上の出来事ですが、あまりに直視しがたい出来事なのか、あるいはその重要性に誰も気がついていないだけなのか、歴史の世界では見過ごされています。まあ、このようなことをやった奈良時代そして天武持統朝が、忌まわしき時代として公家達から嫌われたのは当然かもしれません。やや逆説的ですが、日本の公家というのは平安時代以降は終始一貫して「反支那」なのです。支配者階級である公家が、支那を毛嫌いし、成り上がり者が支那との関係をてこにして国政に介入しようというこの国の構図は千年間変化していません。

【飛鳥・奈良時代の天皇家】
数字は天皇代数
括弧内は重祚(天皇を辞めた人がもう一度天皇になること)
天智天皇と天武天皇以外は同年代を大体同じ行に集めました。Windowsでちゃんと表示されるかちょっと心配。空白の処理はOSごとに変わるようなのでね。

舒明天皇34=皇極天皇35(斉明天皇37)

|ーーーーーーーーーーーーー
|            |
天智天皇38       |
|ーーーーー       |
|    |       |
|持統天皇41===天武天皇40
|       |      |
施基皇子    軽皇子    舎人皇子
|       |      |
|       文武天皇42 |
|      |      |
光仁天皇49 聖武天皇45 |
|      |      淳仁天皇47
|      孝謙天皇46(称徳天皇48)

桓武天皇50


現在の天皇家

 天武天皇(大海人皇子)の子供の世代からは天皇は出ていません。

 天武持統朝とは、天武天皇(大海人皇子)と持統天皇(沙羅羅)の子孫を指します。孝謙天皇の薨去、および井上内親王(孝謙天皇の妹で光仁天皇の妻)・他戸皇子(井上内親王と光仁天皇の子供あるいは井上内親王の養子)の処刑によって断絶しました。淳仁天皇は、藤原仲麻呂の反乱の責任を問われて、孝謙上皇によって無理矢理退位させられ、淡路島に流されました。まさに「血塗られた奈良朝」という言葉がふさわしい一族です。

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2006年5月21日 (日)

直仁親王と伏見宮

陰暦 四月廿四日 【小満】

 花園院の嫡子で、崇光院の皇太弟であった直仁親王、正平十二年(1357)南朝に解放されて賀名生から還御された後、花園院の所領を継承し、落飾後は洛北荻原に住居を営みました。そのため荻原宮と呼ばれています。応永五年(1398)五月に薨去。荻原宮は御子孫を残されなかったため、所領は伏見宮家に継承されました。
 これより先、同年正月に崇光院が崩御。栄仁親王は後ろ盾を失って宮中で弱い立場に立たされていました。崇光院と栄仁親王はもともと持明院統の嫡系ですので、持明院統伝領の財産が後光厳系統に受け継がれることになってしまうと路頭に迷うことになります。それどころかこの後、伏見宮家は崇光院から継承した数少ない財産すらほとんど幕府に没収されてしまいました。後光厳院と後円融院は伏見宮に対抗意識があったため、弱体化を図ったのでした。
 そのため萩原宮が残した財産は、伏見宮家維持のために欠かせないものとなります。なぜなら、持明院統嫡系の財産の処分権は、今や家督を独占している後光厳系統の自由になるけれども、花園院の財産は伏見院から嫡系の財産とは明確に分けて継承した財産であるために、花園院の財産の処分権はたとえ治天の君と雖もないからです。昔の日本人は財産の所有権に関しては大変にシビアでした。
 やがて栄仁親王の孫の彦仁親王が後花園院として登極し、これが現在までつながる皇室の血筋となります。
 花園院はまさしく現在の皇室にとって忘れることができない人物の一人といって良いかと思います。それは後花園院という呼び名にも現れているのでしょう。もはや律令国家の専制君主でもなく、巨大な荘園を持つ権門でもなくなった天皇家にとって花園院は精神的な始祖であるという意味合いが後花園院という呼び名には込められているのではないでしょうか。
(5月22日朝訂正及び加筆)

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2006年5月17日 (水)

長生き遺伝子を探せ(一)・・・御堂流の栄華

陰暦 四月廿日

 話の順序からは白河院の方を先に辿っていくべきなのでしょうが、忠実の方が遺伝関係が分かり易いのでこちらを先に説明します。藤原忠実の八十五才は、平安時代の公卿としてはおそらく最年長ではないかと思われます。
 父の師通は三十七才、祖父の師実は六十才で薨去しています。それほど長命でもありません。しかし、驚くなかれ、忠実の生母藤原全子はなんと九十一才で天寿を全うしています。全子の父親俊家は六十三才ですが、祖父の頼宗は七十三才まで生きています。どうやら忠実の母方の系統は長生き遺伝子を持っていると言って良さそうです。
 父方の方も、曾祖父まで辿ると長命の人物が続々と出てきます。曾祖父は頼通で享年は八十二才、頼通の弟教通は七十九才、そして頼通の姉がかの有名な上東門院彰子で彼女は八十六才まで生きています。
 実は頼宗と頼通は異母兄弟に当たります。彼等の父親こそが藤原道長です。では道長が長命遺伝子の持ち主かというと、そうでもなく、彼は六十一才で亡くなっていますから取り立てて長命でもありません。
 母親(則ち道長の妻)の方へ目を向けてみましょう。上東門院・頼通・教通の母親は源倫子です。倫子の享年はこれまたすごい、八十九才です。頼宗の母親源明子も八十才を超えています。揃いも揃って大変な長寿です。頼通・頼宗・全子・忠実の長命遺伝子は倫子、明子の二人に由来するといって良いでしょう。
 倫子と明子の祖先を辿ると共通の人物にたどり着きます。
 まず上東門院・頼通・教通の母の倫子ですが、倫子の父は宇多源氏の源雅信です。雅信がこれまた長命で七十三才です。雅信の父が敦実親王で七十四才です。この家系は間違いなく長生きの遺伝子を持っていると言ってよいでしょう。敦実親王の父は宇多院、母は藤原胤子です。
 頼宗の母である明子の父親は安和の変で失脚した源高明です。高明は六十八才。このシリーズでは、取り敢えず七十才を超えたかどうかを長生きしたかどうかの基準にしています。けれども政変にあって太宰府に流されながら、生き延びて許されて京都まで戻ってから亡くなるという変転を経験しての六十八才ですから長生きといって良いでしょう。ストレスに強い家系なのでしょうか?高明の父親は醍醐院です。四十六才で崩御されています。ここで途切れてしまうのですが、長生き遺伝子も天神様の怨念にはかなわなかったと言うことにして例外扱いしまして、さらに遡ると醍醐院の父親は宇多院、母親は藤原胤子です。
 ここで共通の祖先にたどり着きました。宇多院の享年は六十四才です。まあ、普通の長生きです。藤原胤子は四十〜五十才でなくなったと考えられますから、長生き遺伝子の持ち主は宇多院なのでしょうか?

忠実の父方の長生き遺伝子に着目した系譜

    宇多院ー敦実親王(七十四才)ー源雅信(七十三才)ー源倫子(八十九才)ー藤原頼通(八十二才)ー師通ー師実ー忠実(八十五才)

忠実の父方の長生き遺伝子に着目した系譜

    宇多院ー醍醐院ー源高明(六十八才)ー源明子(八十才〜)ー藤原頼宗(七十三才)ー藤原俊家ー藤原全子(九十一才)ー藤原忠実(八十五才)

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2006年5月14日 (日)

長生きこそ勝利の秘訣

 「天皇は妻の実家の意向に従う」、という命題よりもずっと確からしい命題があります。それは

「年長者は尊重されるべき」

 です。知識があまりマニュアル化されていなかった時代には年長者が蓄えていた経験は誰にも侵すことのできない貴重な財産でした。また年長者であれば、当然広いコネクションを持ち、子孫も多く、強い影響力を発揮することができます。
 やはり人間においても、いつの時代のどこの世界でも、長生きと子沢山は最終的勝利をもたらす十分条件です。
 何故平安時代初期の天皇親政が崩れて摂関政治に道を譲ったのか、それはまず第一に仁明帝までは天皇が長命で、文徳帝と良房以降は天皇よりも藤原北家の方に長命の人物が続いたからです。実は良房以降も、宇多法皇のように長生きした天皇が現れた時は、天皇や上皇が藤原氏を凌ぐ権力を握っています。宇多法皇の執政は院政といっても良いものでした。
 何故平安時代後期に院政が根付いたのか、白河院が誰よりも長生きだったからです。当時の主立った人物の生没年と享年を並べてみますと、

     後三条院 長元七年(1034)〜延久五年(1073) 四十才 白河院の父

     白河院 天喜元年(1053)〜大治四年(1129)七十七才
     
     実仁親王 延久三年(1071)〜応徳二年(1085) 十五才 東宮

     輔仁親王 延久五年(1073)〜元永二年(1119) 四十六才 白河院の弟

     堀川院 承暦三年(1079)〜嘉承二年(1107)二十九才 白河院の息子・天皇

     藤原師実 長久三年(1042)〜康和三年(1101) 六十才 摂政・関白

     藤原師通 康平五年(1062)〜承徳三年(1099) 三十七才 関白

     大江匡房 長久二年(1041)〜天永二年(1111) 七十才 権中納言・院の別当

     源義家  長暦三年(1039)〜嘉承元年(1106) 六十七才 鎮守府将軍

     藤原忠実 承暦二年(1078)〜応保二年(1162) 八十五才 摂政・関白

 白河院は父の後三条院、弟の実仁親王・輔仁親王、息子の堀川院、摂関の藤原師実・師通よりもずっと長生きしています。大江匡房は白河院の側近です。
 最後に出てくる忠実は更に長生きしていますが彼は白河院の子供の世代ですので完成した院政に振り回された側です。やはり忠実の晩年に摂関家は一時勢力を盛り返しています。
 白河院と藤原忠実が平安時代の長生きの双璧といって良いと思いますが、ではここでこの二人の長命の遺伝子はどこから来たのか探ってみましょう。といっても厳密な話ではありません、この二人の長生きした祖先を辿っていくだけです。しかしそこには飛鳥時代から現代まで続く壮大なドラマが!?

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2006年5月13日 (土)

ゲームのルールができるまで(一)

陰暦 四月十六日 【望】

 何故摂関政治が崩れて院政が敷かれるようになったのか、これを誰にでも理解できるように簡明に説明した論文をまだ読んだことがありません。曰く、王朝国家体制が動揺して、荘園を財源とする権門体制に移行したから、曰く武士団を院がうまく支配下に収めたから、いくつかの説明がありますが、最高権力者が院(王家の家長)でなければならなかった理由を説明してはいません。
 私もアマチュアなりに考えてみましたが、結局摂関家が外戚ではなくなったからという昔からの説明に戻ってくるように思います。
 外祖父、外伯父、舅、順に母方のお祖父さん、伯父さん、妻の父となりますが、摂関になるために必要な地位です。妻の兄弟が入ることもあります。妻の実家の力とはそれほどまでに強かったのか、昔の人は一族の繋がりが強かった、昔の人は長幼の序をわきまえていた、感心感心、と納得してしまうのは簡単です。しかしここで思考停止してしまってよいものでしょうか?
 母の父、あるいは妻の父親に天皇が従うことは、昔の人にとっても決して自明なことではなかったのではないかと私は最近考えるようになりました。何を言いたいのか、要するにそれが権力闘争のルールになったから天皇をはじめとする宮中の人々が外戚を重視するようになったのではないかと私は思います。
 簡単に説明しますと、奈良時代における血で血を洗う権力闘争に飽いた貴族が、天皇の外戚になった人物にはまず無条件で権力を与えようという権力闘争の勝者を決めるルールを作り出して、権力争いを結婚と子育てのゲームに還元してしまったと言えます。
 最高権力者を昼のメロドラマの論理で決めるのか!といわれるかもしれませんが、とにかくルールがあるというのは大切なことです。ルールがないと、反対する奴を皆殺しにすることでしか言うことを聞かせられなくなります。結婚と子育てのゲームでともかくも上下関係を作る。そのあとで、裏から外祖父をコントロールするというのはありです。それどころか、天皇の外祖母と再婚して義理の外祖父になってしまうなんて言うミラクルな手法すらあります。大事なのはむき出しの武力を表に出さないことでした。
 天皇の外戚になることが権力闘争の勝敗を決するという命題が人工的なルールであれば、当然ルールができる前の世界もありましたし、ルールの不備を埋める努力も行われましたし、ルールの抜け道を使った人も存在しました。そしてこのルールが通用しない特異点とも言うべき人物が天皇になった瞬間、このルールは無効化されて摂関政治は終わったのでした。
 これからしばらく摂関政治と院政の盛衰を眺めていきましょう。

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