2023年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
無料ブログはココログ

« 直仁親王と伏見宮 | トップページ | 長生き遺伝子を探せ(二)・・・宇多天皇の一族 »

2006年5月25日 (木)

唐に憧れた奈良時代の貴族

昔に別の場所に書いたものの転載。

陰暦 四月廿八日
 まず、白村江の戦いに大敗北をした日本は、唐と新羅が攻めてくることを警戒していました。同時に朝鮮半島における足がかりを奪還する機会もうかがっていました。
 外国と戦うためには、全国規模で兵隊と物資を集める組織が必要です。唐と新羅はいつ攻めてくるか分からないので(日本が朝鮮半島に攻め込めたと言うことは向こうも攻めてこれると言うこと)常時警戒が必要です。日本は隋唐の律令制度を参考にして、全国の兵隊と物資を動員できる体制を整えました。道路や城塞も整備されました。これが一つ。
 唐と新羅が対立関係に入ったことと、唐の軍事力の矛先が西域に向かったことで(イスラムという新たな勢力が現れたから)、日本としては支那ばりの大軍を維持する必要性は薄れてきました。そこで、余った国力を国分寺建立や東大寺の大仏建立に傾けました。これは仏教に入れ込んで大規模な仏教施設を次々と建立した北魏や六朝文化の真似事です。これが二つ。
 かつての日本と一緒ですが、中進国において、始めは戦争のために整備された国家総動員態勢が、平和時に社会インフラの整備用に有効に働くという例です。しかしこれまた今の日本やナチスドイツ同様に、いつまでも続きません。ふくれすぎた経済の政府部門は非効率となり、逆に経済を圧迫します。
聖武天皇の時代と孝謙天皇の時代には、貴族や地方豪族に官位や恩給が乱発されています。ばらまき行政ですね。両人としては、豊かで徳のある天子が万民に恩恵を施しているつもりだったのでしょう。財政再建は光仁天皇(天智天皇の孫で桓武天皇の父親)の主要課題となります。
 六朝の政権交代を見ると、従兄弟や外戚による皇位簒奪がパターンになっています。これを真似しようとしたのが藤原仲麻呂。仲麻呂は孝謙上皇の従兄でしたから、その当時の支那の感覚では十分に皇帝になる資格がありました。新羅征伐の大動員をかけたり、自家薬籠中の人物を皇位につけたり(淳仁天皇)、官制の再編成を繰り返したり、仲麻呂は新の王莽や六朝の簒奪者の行動を忠実になぞっています。このような人物が出てきたのも支那への没入が原因です。これが三つ。
 支那、あるいは支那の国家制度の利点と欠点を遺憾なく発揮したのが奈良時代であったと私は考えます。
 それと、これは光仁天皇の時代のことですが、唐の使節が来朝して、光仁天皇が百官の前で臣従の礼を取りました。おそらく三拝九叩頭をしたのでしょう。これは当時の日本第一の学者であある石上宅嗣の主張に従った物でした。傍系の皇子として60年間息を潜めて生き残った光仁天皇としては、別に屁でもなかったと私は思いますが、あまりにおいたわしいと嘆かぬ者はいなかったと言うことです。「続日本紀」では「あるひと」がこれに強硬に反対したと伝えられていますが、これは皇太子の山部親王(桓武天皇)でしょう。このような主張を学者が唱えて、それがいやいやながらも通ってしまうことが、奈良時代の朝廷の雰囲気を表しています。
 光仁天皇が支那の使節に臣下の礼を取ったことは、昭和天皇のマッカーサー訪問以上の出来事ですが、あまりに直視しがたい出来事なのか、あるいはその重要性に誰も気がついていないだけなのか、歴史の世界では見過ごされています。まあ、このようなことをやった奈良時代そして天武持統朝が、忌まわしき時代として公家達から嫌われたのは当然かもしれません。やや逆説的ですが、日本の公家というのは平安時代以降は終始一貫して「反支那」なのです。支配者階級である公家が、支那を毛嫌いし、成り上がり者が支那との関係をてこにして国政に介入しようというこの国の構図は千年間変化していません。

【飛鳥・奈良時代の天皇家】
数字は天皇代数
括弧内は重祚(天皇を辞めた人がもう一度天皇になること)
天智天皇と天武天皇以外は同年代を大体同じ行に集めました。Windowsでちゃんと表示されるかちょっと心配。空白の処理はOSごとに変わるようなのでね。

舒明天皇34=皇極天皇35(斉明天皇37)

|ーーーーーーーーーーーーー
|            |
天智天皇38       |
|ーーーーー       |
|    |       |
|持統天皇41===天武天皇40
|       |      |
施基皇子    軽皇子    舎人皇子
|       |      |
|       文武天皇42 |
|      |      |
光仁天皇49 聖武天皇45 |
|      |      淳仁天皇47
|      孝謙天皇46(称徳天皇48)

桓武天皇50


現在の天皇家

 天武天皇(大海人皇子)の子供の世代からは天皇は出ていません。

 天武持統朝とは、天武天皇(大海人皇子)と持統天皇(沙羅羅)の子孫を指します。孝謙天皇の薨去、および井上内親王(孝謙天皇の妹で光仁天皇の妻)・他戸皇子(井上内親王と光仁天皇の子供あるいは井上内親王の養子)の処刑によって断絶しました。淳仁天皇は、藤原仲麻呂の反乱の責任を問われて、孝謙上皇によって無理矢理退位させられ、淡路島に流されました。まさに「血塗られた奈良朝」という言葉がふさわしい一族です。

« 直仁親王と伏見宮 | トップページ | 長生き遺伝子を探せ(二)・・・宇多天皇の一族 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 唐に憧れた奈良時代の貴族:

« 直仁親王と伏見宮 | トップページ | 長生き遺伝子を探せ(二)・・・宇多天皇の一族 »