直仁親王と伏見宮
陰暦 四月廿四日 【小満】
花園院の嫡子で、崇光院の皇太弟であった直仁親王、正平十二年(1357)南朝に解放されて賀名生から還御された後、花園院の所領を継承し、落飾後は洛北荻原に住居を営みました。そのため荻原宮と呼ばれています。応永五年(1398)五月に薨去。荻原宮は御子孫を残されなかったため、所領は伏見宮家に継承されました。
これより先、同年正月に崇光院が崩御。栄仁親王は後ろ盾を失って宮中で弱い立場に立たされていました。崇光院と栄仁親王はもともと持明院統の嫡系ですので、持明院統伝領の財産が後光厳系統に受け継がれることになってしまうと路頭に迷うことになります。それどころかこの後、伏見宮家は崇光院から継承した数少ない財産すらほとんど幕府に没収されてしまいました。後光厳院と後円融院は伏見宮に対抗意識があったため、弱体化を図ったのでした。
そのため萩原宮が残した財産は、伏見宮家維持のために欠かせないものとなります。なぜなら、持明院統嫡系の財産の処分権は、今や家督を独占している後光厳系統の自由になるけれども、花園院の財産は伏見院から嫡系の財産とは明確に分けて継承した財産であるために、花園院の財産の処分権はたとえ治天の君と雖もないからです。昔の日本人は財産の所有権に関しては大変にシビアでした。
やがて栄仁親王の孫の彦仁親王が後花園院として登極し、これが現在までつながる皇室の血筋となります。
花園院はまさしく現在の皇室にとって忘れることができない人物の一人といって良いかと思います。それは後花園院という呼び名にも現れているのでしょう。もはや律令国家の専制君主でもなく、巨大な荘園を持つ権門でもなくなった天皇家にとって花園院は精神的な始祖であるという意味合いが後花園院という呼び名には込められているのではないでしょうか。
(5月22日朝訂正及び加筆)
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