三隅山荘訪問記
陰暦 六月朔日
週末に山陰へ行ってきました。目的の一つが村田清風の生家を訪れること。
村田清風は天保年間に長州藩を財政破綻から救い、幕末に雄飛する礎を築いた人物で、薩摩藩の調所笑左衛門と並び称される偉人です。ただし調所笑左衛門と比べて、村田清風に関する市販本は極端に少ないのが現実です(調所笑左衛門には吉川弘文館と岩波新書の伝記があります)。そこで山口県三隅町の記念館へ行けば何か資料があるだろうと考えました。
寝台のはやぶさ号から美祢線に乗り換え、長門三隅で下車。その先は電車が少ないのでタクシーで記念館へやってもらいました。運転手さんからは「年配の人はたまにいるけれど、若い人は珍しいね、観光ですか?」と声をかけられました。10分くらいで記念館に到着。田んぼとやや古ぼけた町並みの中に清風の生家と記念館はありました。
生家はよく保存されています。庇が瓦葺きになっているのが後世の修復だと思うのですが、それ以外は江戸時代のままです。昔生田の民家園で見た民家と比べて、部屋が細かく分けられていました。庶民の家はいろりと作業場が中心にある作りが多いのに対して、三隅山荘は武家屋敷ですから、そのような作業スペースはありません。むしろ部屋の配置は近代の住宅に近いです。ここで清風は育ち、また後進を育成したのです。
隣には記念館があります。景観に配慮して、外観は木造です。200円で入館できます。有り難いことに、地元の研究家(小中学校校長及び教育委員を歴任した平川喜敬氏)による伝記「村田清風入門」が売ってありました。入門とは言えど十分に詳しい内容を備えています。収穫ありでした。
館内には、三隅町出身である村田清風と周布政之助の遺品と、民俗資料が展示されていました。吉田松陰、高杉晋作、桂小五郎といったまばゆい派手な英傑達を陰で支えた常識人達がいたことを知ることができました。民俗資料の方は、四白政策のうち特に櫨(ハゼ)から蝋(ろう)を造る工程を詳しく説明してあり、とても勉強になりました。
私は実を言うと幕末明治に活躍した長州人の人を人とも思わぬ奇矯な行動に反感を抱いており、あまり長州を評価していなかったのですが、今回の三隅訪問で、その長州にもイデオロギーに酔うことなく、人のために合理的政策をとりかつ、なお手の届く範囲で夢を追った常識人達(毛利敬親と村田清風と周布政之助)がいたことを知り、長州に対する認識を改めました。
毛利敬親と村田清風と周布政之助に白石正一郎を加えた四人こそが、長州の回天の真の功労者であると私は思っています。今後、幕末をこの四人と薩摩は調所笑左衛門の始点から研究したいと考えています。まずは村田清風の事績から・・・
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