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2006年6月26日 (月)

三隅山荘訪問記

陰暦 六月朔日

 週末に山陰へ行ってきました。目的の一つが村田清風の生家を訪れること。

 村田清風は天保年間に長州藩を財政破綻から救い、幕末に雄飛する礎を築いた人物で、薩摩藩の調所笑左衛門と並び称される偉人です。ただし調所笑左衛門と比べて、村田清風に関する市販本は極端に少ないのが現実です(調所笑左衛門には吉川弘文館と岩波新書の伝記があります)。そこで山口県三隅町の記念館へ行けば何か資料があるだろうと考えました。

 寝台のはやぶさ号から美祢線に乗り換え、長門三隅で下車。その先は電車が少ないのでタクシーで記念館へやってもらいました。運転手さんからは「年配の人はたまにいるけれど、若い人は珍しいね、観光ですか?」と声をかけられました。10分くらいで記念館に到着。田んぼとやや古ぼけた町並みの中に清風の生家と記念館はありました。

 生家はよく保存されています。庇が瓦葺きになっているのが後世の修復だと思うのですが、それ以外は江戸時代のままです。昔生田の民家園で見た民家と比べて、部屋が細かく分けられていました。庶民の家はいろりと作業場が中心にある作りが多いのに対して、三隅山荘は武家屋敷ですから、そのような作業スペースはありません。むしろ部屋の配置は近代の住宅に近いです。ここで清風は育ち、また後進を育成したのです。

 隣には記念館があります。景観に配慮して、外観は木造です。200円で入館できます。有り難いことに、地元の研究家(小中学校校長及び教育委員を歴任した平川喜敬氏)による伝記「村田清風入門」が売ってありました。入門とは言えど十分に詳しい内容を備えています。収穫ありでした。

 館内には、三隅町出身である村田清風と周布政之助の遺品と、民俗資料が展示されていました。吉田松陰、高杉晋作、桂小五郎といったまばゆい派手な英傑達を陰で支えた常識人達がいたことを知ることができました。民俗資料の方は、四白政策のうち特に櫨(ハゼ)から蝋(ろう)を造る工程を詳しく説明してあり、とても勉強になりました。

 私は実を言うと幕末明治に活躍した長州人の人を人とも思わぬ奇矯な行動に反感を抱いており、あまり長州を評価していなかったのですが、今回の三隅訪問で、その長州にもイデオロギーに酔うことなく、人のために合理的政策をとりかつ、なお手の届く範囲で夢を追った常識人達(毛利敬親と村田清風と周布政之助)がいたことを知り、長州に対する認識を改めました。

 毛利敬親と村田清風と周布政之助に白石正一郎を加えた四人こそが、長州の回天の真の功労者であると私は思っています。今後、幕末をこの四人と薩摩は調所笑左衛門の始点から研究したいと考えています。まずは村田清風の事績から・・・

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2006年6月20日 (火)

わかっちゃいるけどやめられない

陰暦 五月廿五日

 コメディアンの植木等の父親は浄土真宗の僧侶でした。それも生半可なお坊さんではなく、徴兵された時に「自分は僧侶であるから兵隊にはなれない」と良心的兵役拒否をして投獄されたこともある本物だったそうです。

 その植木等の父親、息子の歌を聴いた時「これこそ親鸞上人の教えである」と言って随喜したと言います。そもそも「スーダラ」というのは梵語で「執着」を意味しますから、植木等もある程度狙って題名をつけているのが分かります。

 私たち近代人は、自分の心の主導権は必ず自分にあるはずだと信じています。しかしよく考えてみてください、心というのはいつも先に結論を出し、自分というものは恒に心が勝手に出した結論に後追い承認を与えているに過ぎないことに気がつくはずです。意識が一生懸命出した結論に心を従わせることはできません。でも意識が頼みもしないのに心が出した結論には意識は従わざるを得ない。

 精神分析では、無意識に人格が複数あって、複数ある人格が協議して結論を出すのだ、という形でかろうじて心の決定権は自分にあるのだという一線を守りました。しかし外からこの自分会議に手を出せなくて、意識に上ってくるのは結論だけだとしたら、結局「頭の中の自分達」が結論を出していると考えることと、「空の上の神仏、地の精霊、地底の悪魔が命じた結論に従う」と感じることの間には差はありません。

 このようなことを言うと、近代人は、「それでは努力する意味はないではないか」と考えてしまいますが、そうではありません。神仏が心に働きかける、と考える人達は良い神仏に近づこうとする努力で自分の心に働きかけることができるわけです。心は暗喩が好きですので、これの方が効果的ですらあります。

 さて近代は理性の時代ですが、理性とはなんでしょう。

 理性=心ではありませんが、訓練を積めば、理性が出した結論通りに身体を動かすことは可能です。心はそれを嫌がることもあれば喜ぶこともあります。やっぱり理性は心ではないのですね。

 よくよく考えてみると、理性というのは「心の中で外からコントロールできる部分」であるわけです。親・学校・マスコミ・国家からの教育によってコントロールされている自己が理性です。

 人間は本能が壊れていますので、このように共同幻想を作らないと生きていけません。しかし破滅的な共同幻想の上に社会を作れば破滅しますので、共同幻想は一応壊れにくいようにできています。だから理性と呼ばれるのです。しかし所詮人間が創ったものですから、理性にも綻びがあってたまに崩れます。

 カレン・アームストロングは理性の神は残虐なことをすることもあるが、神秘主義の神はそういうことはしない、という主旨のことを「神の歴史」に書いていました。理性というのは外からコントロールされている自己ですから、外から変な情報を吹き込めば当然暴走するでしょう。神秘主義の神は心が感じる現象ですから、善でもなければ悪でもありません。神秘主義の神を感じたとして、そのことは現実の行動にはむすびつきません。ただし生きることに対して肯定的な気持ちになる人が多いのは確かであるようです。

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2006年6月13日 (火)

両陛下、シンガポール・タイ御訪問前の記者会見(三)

在日外国報道協会の質問
 

    まず,第1の質問なんですけれども,愛国心を促す方向で日本の教育基本法の改正が進められています。しかし,陛下がこの度訪問されます国も含めました近隣諸国では,そういった動きが戦前の国家主義的な教育への転換になるのではと恐れられています。陛下もそうした見解に共鳴されますでしょうか。

これに対し、陛下はお答えの中で

    ・・・事実としては,昭和5年から11年,1930年から36年の6年間に,要人に対する襲撃が相次ぎ,そのために内閣総理大臣あるいはその経験者4人が亡くなり,さらに内閣総理大臣1人がかろうじて襲撃から助かるという異常な事態が起こりました。

と宣われました。まず史実を確認しますと、これは
昭和5年(1930)11月9日に起きた浜口雄幸首相狙撃事件(この疵が元で首相は翌年死去)。犯人は右翼結社愛国社に所属する佐郷屋留雄という青年。
昭和7年(1932)5月15日に起きた、海軍青年将校による犬養毅首相暗殺事件(五・一五事件)
昭和11年(1936)2月26日に起きた二・二六事件における、斎藤実内大臣、高橋是清蔵相暗殺(両人ともに元首相)と、岡田啓介首相の遭難(間違えられた義弟が死亡)。犯人は陸軍青年将校。
をさしています。それ以外にも、昭和7年の井上準之介蔵相の暗殺、三井合名理事長団琢磨暗殺があり、二・二六事件では鈴木貫太郎侍従長が重症、渡辺錠太郎陸軍教育総監が殺害されています。そのほかにも数多くの未遂事件が発覚しています。

 これら一連のテロが政治家を萎縮させ、対外強硬論しか表で口に出せない空気を日本中に醸成したことは、近代史に詳しい人にはよく知られていました。しかし、歴史教育ではこの昭和初期のテロの嵐を十分には教えません。日本が対外侵略に走ったのは、日本の社会が対外侵略せざるを得ない状態にあったのだという、侵略志向は近代日本社会の胚胎するのがれられぬことであったかのような説明がされています。

 おそらく、社会のあり方が政治の選択を決めてしまうという唯物史観の影響でしょう。それもまた事実だと思いますが、昭和前期の日本が何故あそこまで硬直化してしまったのかは、このテロの恐怖に日本の支配層が怯えてしまったために、「領土を広げれば全てが解決する」というような対外強硬論や、「社会制度を大胆に変革すれば全てがたちどころに解決する」というような革新礼賛の路線しか選択ができなくなってしまったからです。

 困難を見つめて投げ出さないで時間をかけて解決法を探す姿勢は、「軟弱」「まわりくどい」といって、軽蔑され、それだけではなく命を狙われる理由となりました。

つづく陛下のお言葉、

    帝国議会はその後も続きましたが,政党内閣はこの時期に終わりを告げました。そのような状況下では,議員や国民が自由に発言することは非常に難しかったと思います。


 必ずしも、上に上げた暗殺された人達の政策が正しかったと陛下や歴史学者が主張しているわけではありません。あるいは彼等の政策は間違っていたのかもしれません。むしろその可能性は濃厚です。しかし、その間違いは明治憲法に規定した方法に則って糾されるべきだったのです。憲法の枠を外れたテロが言論を支配するようになった時に、日本は自由を失い、滅びへの道を駆け下ることになりました。

 経済的に考えると、近衛内閣以来の新閣僚による、軍需を中心にした重化学工業化は当時の日本を豊かにする正しい政策であったと私個人は考えています。しかし、その政策が選ばれるまでの手順が憲法から外れていたために、最終的にはよい結果を生みませんでした。

 考えようによっては、陛下のお言葉は大変にお厳しい。日本が亡国の道へ進んだのを、社会のせいだけにして責任を希薄化して誤魔化してはいけないという意味だからです。まず明治憲法を踏みにじる人々(決して一部軍人の陰謀ではない、むしろ義侠心に駆られた真面目な人々)のテロがあり、それを厳しく罰しないでテロリストを甘やかした官憲があり、テロに喝采を叫んだりテロリストの助命嘆願をした一般庶民がいて、日本人自身が明治憲法を葬ったのでした。

 以上のように、陛下のお言葉は大変重いものです。

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2006年6月11日 (日)

両陛下、シンガポール・タイ御訪問前の記者会見(二)

 6月6日に宮城で開かれた両陛下の記者会見でのお言葉のどこが画期的であるのでしょうか。記者会見では、宮内記者が主に皇族と外国の王族とのおつきあいに関して質問し、在日外国報道協会がやや突っ込んだ内政と外交についての質問をしました。両方とも含蓄に富んだお言葉でもって陛下は答えられました。宮内記者がした質問からもいろいろなことが読み取れますが、これは御簾の内を除くような話になりますからここでは書きません。ここでは外国記者の方の質問へのお言葉を分析いたします。
 そもそも内政に関する質問を外国記者に配分したことにも宮内庁の細かな心配りが感じられます。陛下が国民に対して何らかの政治的言動されてしまうとどうしてもそれは命令になってしまうからです。外国記者にはその心配はありませんから、政治に関する突っ込んだ発言をされても大丈夫です。
 私は今年の2月中旬あたりから宮内庁は正常化してきたと感じています。政府の命令を皇族にこなさせることを今まで宮内庁(特に上層部を占めている他省庁からの出向組)は職務と考えていたように私には見られました。しかし、最近は皇族を守ることに主眼が移っています。秋篠宮が子供を作られることによって、はっきりとした皇族の立場を示され、宮内庁上層部が進めていた日本国憲法が規定する天皇の仕事だけをこなすのに都合のいい天皇を作ろうとする動きに皇室が反対であることが明白となったからであると思います。
 結果、日本国憲法絶対主義に立っていたと簡単に推測できる宮内庁参与の中島敏次郎氏と大西勝也氏が3月31日に同時に退任しました。この二人は元最高裁判事です。どうしても日本国憲法絶対論でしか動くことができません。更に中島敏次郎氏は在中国日本大使でした。
 かわりに、日本近代史の専門家である三谷太一郎氏と元アメリカ大使の栗山尚一氏が参与に就任しました。三谷氏は原敬の研究家、明治憲法に詳しいそうです(著作は読んだことがないのではっきりとは言えないのですが)。栗山氏はアメリカとの防衛ガイドラインを作るために中心となって働いてきた外交官です。
 一部では栗山氏を侵略史観の持ち主として非難する趣もありますが、栗山氏が湾岸戦争やカンボジアでPKOで自衛隊派遣に反対したのは、法制度も装備も不十分な状態で自衛隊を派遣すると、自衛隊が危険な目に遭うので、政府としてそのような無責任なことはできないと考えたからです。至極真っ当な主張です。ですから、海外で自衛隊を動かすための法整備にその後尽力したのでしょう。官僚としてあるべき姿だと思います。正当防衛すらまともにできない状態で兵を派遣するのは無責任です。
 参与の人選にどこまで皇室の意向が反映されるのかは不明です。そもそも中島氏と大西氏を皇室が選んだとも思えません。でも今回の人選は今までの皇室の言動によく合致しているように私には思えました。
 皇室典範に関する有識者会議で、首相は会議が皇室の意向を確かめた上で議論を進めている物と思いこんでいました。これに対して、吉川議長は皇室からは意見を聞かなかったと表明しています。官邸と会議の間に齟齬があるわけですが、責任は会議のメンバーである宮内庁長官と副長官にあります。会議が皇室から意見を聞くとしたらこの二人を通さざるを得ないからです。つまりこの二人が首相の意向と違うことをしていたことになるので、職務をさぼっていたということになります。
 しかし宮内庁長官が罰せられた形跡はありません。となると、長官は誰かを通して皇室の意向を確認していたけれど、それが嘘であったことが三笠宮の激怒と寛仁親王の活動そして秋篠宮妃の御懐妊で明らかになってしまったということになります。現役のキャリア官僚が皇室と密着するのは良くないので、皇室と政界・官界の間は参与が取り持つことになっています。つまり有識者会議が皇室の意向から全く外れた動きをした責任は宮内庁の参与に帰せられます。これが中島氏と大西氏が退任させられた理由でしょう。
 新任の三谷氏と栗山氏の人選は、小泉総理得意の丸投げが成功した例だと思います。官邸は何人か候補者を出してその中から皇室が選んだのだと思われます。それをそのまま通したのでしょう。
 三谷氏と栗山氏という人選に込められたメッセージは、明治憲法の再評価と軍のシビリアンコントロールの整備の重要性です。皇室の政治的センスには全く脱帽するしかありません。今上陛下は全く政治的発言をしない象徴天皇の鑑だ等といわれてきましたが、なかなかどうして大変な政治的センスの持ち主です。侮っていると痛い目に遭います。さすがは昭和大帝の息子です。
 5月31日には経団連元会長の平岩外四氏も退任されました。高齢のためです。中島氏と大西氏が罷めさせられたのでバランスを取ってという意味もあるでしょう。後任はおかれないことになったので、これで宮内庁参与は、上代以来宮殿を守ってきた氏族である湯浅氏(しかも祖父は宮内大臣)、明治憲法下政党時代の歴史が専門である三谷氏、軍のシビリアンコントロール法制の専門家でなおかつ元駐米大使の栗山氏となりました。最高にバランスが取れた態勢です。この三人態勢の宮内庁は信用して良いのではないかと私は考えます。
 では次に記者会見の内容を分析していきましょう。

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2006年6月 7日 (水)

両陛下シンガポール・タイ御訪問前の記者会見(一)

陰暦 五月十二日

 どうも調子が良くなかったのでしばらく更新をさぼってしまいました。申し訳ありません。

 天皇皇后両陛下がシンガポールとタイへ御訪問されるに当たって、先日皇居において内外の記者を集めての会見が行われました。この記者会見の内容は大変に画期的です。いままで政府の公式見解をなぞるだけであった陛下の御発言が、歩を前に進められ、ある一定の歴史観の選択を示されたからです。

 その歴史観というのは、全く新しい物ではなく、当然学者が研究してきた成果のうちの一つを選択した物でありますが、敢えて陛下が一つの学説を選ばれたことに、戦後初めて皇室が日本の未来へ向けて一つの選択をしたのを私がここに見出しました。

 おそらくこれは宮内庁参与に三谷太一郎氏と栗山尚一氏が新しく選ばれたことと関連しているのでしょう。有識者会議は最悪でしたが、この二人の選択については、小泉総理はよくやったといわなければなりません。

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