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2006年6月20日 (火)

わかっちゃいるけどやめられない

陰暦 五月廿五日

 コメディアンの植木等の父親は浄土真宗の僧侶でした。それも生半可なお坊さんではなく、徴兵された時に「自分は僧侶であるから兵隊にはなれない」と良心的兵役拒否をして投獄されたこともある本物だったそうです。

 その植木等の父親、息子の歌を聴いた時「これこそ親鸞上人の教えである」と言って随喜したと言います。そもそも「スーダラ」というのは梵語で「執着」を意味しますから、植木等もある程度狙って題名をつけているのが分かります。

 私たち近代人は、自分の心の主導権は必ず自分にあるはずだと信じています。しかしよく考えてみてください、心というのはいつも先に結論を出し、自分というものは恒に心が勝手に出した結論に後追い承認を与えているに過ぎないことに気がつくはずです。意識が一生懸命出した結論に心を従わせることはできません。でも意識が頼みもしないのに心が出した結論には意識は従わざるを得ない。

 精神分析では、無意識に人格が複数あって、複数ある人格が協議して結論を出すのだ、という形でかろうじて心の決定権は自分にあるのだという一線を守りました。しかし外からこの自分会議に手を出せなくて、意識に上ってくるのは結論だけだとしたら、結局「頭の中の自分達」が結論を出していると考えることと、「空の上の神仏、地の精霊、地底の悪魔が命じた結論に従う」と感じることの間には差はありません。

 このようなことを言うと、近代人は、「それでは努力する意味はないではないか」と考えてしまいますが、そうではありません。神仏が心に働きかける、と考える人達は良い神仏に近づこうとする努力で自分の心に働きかけることができるわけです。心は暗喩が好きですので、これの方が効果的ですらあります。

 さて近代は理性の時代ですが、理性とはなんでしょう。

 理性=心ではありませんが、訓練を積めば、理性が出した結論通りに身体を動かすことは可能です。心はそれを嫌がることもあれば喜ぶこともあります。やっぱり理性は心ではないのですね。

 よくよく考えてみると、理性というのは「心の中で外からコントロールできる部分」であるわけです。親・学校・マスコミ・国家からの教育によってコントロールされている自己が理性です。

 人間は本能が壊れていますので、このように共同幻想を作らないと生きていけません。しかし破滅的な共同幻想の上に社会を作れば破滅しますので、共同幻想は一応壊れにくいようにできています。だから理性と呼ばれるのです。しかし所詮人間が創ったものですから、理性にも綻びがあってたまに崩れます。

 カレン・アームストロングは理性の神は残虐なことをすることもあるが、神秘主義の神はそういうことはしない、という主旨のことを「神の歴史」に書いていました。理性というのは外からコントロールされている自己ですから、外から変な情報を吹き込めば当然暴走するでしょう。神秘主義の神は心が感じる現象ですから、善でもなければ悪でもありません。神秘主義の神を感じたとして、そのことは現実の行動にはむすびつきません。ただし生きることに対して肯定的な気持ちになる人が多いのは確かであるようです。

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