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2006年7月29日 (土)

ルーズベルトは神か?

陰暦 七月五日

 土曜日ですし、機嫌もいいのでいっちょレスがつけやすそうな話題を振ってみようと思います。

 真珠湾攻撃はフランクリン・ルーズベルト大統領の陰謀という俗説が昔からあります。日本に先制攻撃をさせて米国世論の激昂を狙ったという話です。この説には一つ誰もが忘れている不思議な点があります、ルーズベルトが日本軍の奇襲攻撃を誘ったとして、果たして艦載機による軍港爆撃を想定したかです。

 理論上はともかく、戦闘機の性能についてはまだ誰もが半信半疑な時代でした。詳しい人の話によると、一部の飛行機マニアの間では、空母から飛行機を飛ばせて敵艦隊を撃滅する作戦は研究されていたそうですが、軍の外に確証を持って進言されるような話ではありません。ただの先行研究です。

 ですから、現地時間12月7日(日)朝に、ルーズベルト大統領が日本軍の攻撃を想定していたはずがないのです。

 現地時間12月8日(月)以降に、ハワイ沖で艦隊決戦を狙っていた、というのならまだ話は分かります。ハワイの住民にも見える場所で戦えば危機意識の喚起には充分でしょうし、連合艦隊は長征で燃料も心許ないはずですので、米軍が勝てる可能性も高くなります。

 ルーズベルト大統領が、日本の零戦に真珠湾を攻撃させることを狙っていた、という話は、知らないうちにルーズベルトを神にも等しい英知を備えた存在に祭り上げていると同じことなのでした。

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2006年7月27日 (木)

村田清風(四)…三十七ヶ年賦皆済仕法

陰暦 七月三日

 すっかり週刊ペースになってしまいました。週に二回くらいは更新したいと思っているのですが、ちょこちょこと忙しいのでままなりません。そもそもブログは気晴らしにやるものですから、負担となっても仕方がないのでしばらくはこの調子でやっていくことになると思います。

 村田清風に戻ります。村田清風が取り組んだ藩立て直し策の一つに下級藩士の救済がありました。近世初期と比べて物価は上昇していたにもかかわらず、ほとんどの藩士の俸給は据え置きでした。それどころか「御馳走米」と称して、俸禄の半分以上も藩が天引きをしていました。藩庫増収策としてお手軽だったからです。

 武士はやがて日々の生活費にも行き詰まり、刀剣・槍・甲冑・馬に到るまで質入れしてやりくりする有様と成り果てました。

 それに反して、上級武士や功績のあった武士は、藩から開墾の権利を与えられたり、下級藩士に金貸しをすることで裕福になっていました。さらに、先週見たように長州藩は撫育方という秘密会計を持っており、撫育方が黒字であることは明らかでした。撫育方もまた藩士相手に金貸しをしていました。

 このように藩士や町人の一部が富み、藩を支えるべき藩士大多数が困窮する状態を清風は、「弟の物を取って兄に喰わせるような『四民貸殺』の制度」「同士食い経済」と糾弾しています。いざというときに兵士となって戦う藩士がこれではいくら撫育方に金が貯まっても意味はありません。

 そこで清風は天保十四年(1843)、三十七ヶ年賦皆済仕法を発令します。

 この方法は、藩庁から借りたお金は棒引きにしてやる、返さなくともよい、そのかわり今後は藩から(公借のこと)一切借金をしてはならない、なお商人から借りたお金(私借のこと)は藩が肩代わりして、藩が借りたことにし、藩は利子だけは毎年債権者に支払うが元金は37年支払い延期して、商人に待たせるという方法でした。

 鎌倉時代の徳政や薩摩藩の更始(借金踏み倒しあるいは低利への借り換え?)と比べて穏当なモラトリアム宣言ですが、大阪や防長の金融業者は恐慌をきたしました。彼等は清風の反対派である坪井九右衛門と江戸藩邸の女性たちを援助して三十七ヶ年賦皆済仕法撤回を求めました。それは成功してしまい、翌天保十五年に「公内借捌法」が改めて施行されます。

 これは公借を無借とし、私借も藩が立て替えるというものでした。結局藩は大阪の商人から五千貫も借りることになります。藩の歳入とほぼ同額です。撫育方を担保にしたと考えられます。

 しかし、せっかく八万貫から半分近くにまで減っていた借金が増えてしまい、これは失敗であったということで坪井派は弘化三年(1846)に処罰されました。

 けれども「村田清風入門」の著者は書いていませんが、公内借捌法によって藩士は相当息がつけて、藩に感謝をしたのではないかと思います。幕末に日本中を敵に回した時も、長州藩から内応者が出なかったのは、この時に藩が下級武士を助けたのを藩士が忘れなかったのも一因ではないかと私は考えます。

 また、薩摩や熊本のように更始をしなかったことにより、上方で長州藩の評判は上がり、これもまた幕末に長州が京大阪で活動する時に大いに役立ったのではないでしょうか。

 天保期の薩長を調べていて面白いのは、長州藩の方が律儀で藩士や町人との約束をよく守っているのに対して、薩摩藩は藩士や農民から搾り取ったり、町人との約束を破ることを屁とも思っていないのが見えてくることです。長州=軽薄、薩摩=実直という明治時代に作られたイメージがありますが、これは実態を表していません。あるいはこれは個人に当てはまるものであって、藩全体としては、薩長は後世に作られたイメージとは全く違っていた可能性があります。

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2006年7月20日 (木)

村田清風(三)…撫育方

陰暦 六月廿五日 【土用】

 村田清風を語るためには、萩藩中興の祖毛利重就を知る必要があると思った私は、吉川弘文館の人物叢書の「毛利重就」(小川国治著)を買ってまいりました。なぜなら「撫育方」という世にもユニークな制度を抜きにして近世後期の萩を語ることはできないからです。

 毛利重就は萩藩の支藩長府毛利の家に生まれました。享保期の萩では藩主が相次いで亡くなり、輝元の長系が断絶、長府毛利氏から入った養子も断絶したため、長府毛利氏の支藩である清末毛利氏から、元平が、長府毛利を経て二段飛びで藩主になりました。重就は元平の五男です。長兄の師就が早世したために世継ぎとなったのでした。

 つまり重就は、本来ならば、本藩>長府>清末、と三段目に位置する家の部屋住みとなる所、思いもかけず藩主となることができた幸運な人物です。江戸時代の大名家では時々このようなシンデレラボーイが登場します。上杉治憲(鷹山)や井伊直弼がそうです。養子という制度の妙です。そして、養子の中には世のために私心なく働いた人が多い。光格天皇を入れてもいいかもしれません。

 防長の総石高は当時82万石でしたが、長府・徳山・岩国・清末の四末家に183,000石を分知。諸臣の給地として197,200石を与えていました。残る蔵入高(直轄地の石高)は447,000石になります。そこから荒廃地・寺社領・庄屋への給地を26,000石を除くと421,000石が残ります。それに税率(32.5%)を書けたのが年貢米で136,700石が藩庁が使える収入となります。

 加えて雑収入と馳走米(藩士や町人から強制的に徴収した米、一種の所得税)があり、247,000石の収入がありました。ここから参勤交代の費用、領内の土木工事の費用、江戸での付き合い費、幕府のお手伝い普請の費用、天皇の即位の礼の献上金などを捻出しなければなりませんでした。総支出は282,000石。差し引き35,000石ですが、諸郡新古入替米(古くなった備蓄米の売り払い代金)と借米等借戻米(藩士や町人に貸し与えていた米の利子)があるので最終的な不足高は10,900石でした。

 これに加えて、銀の方は不足高正銀9,566貫目、札銀1,438貫目。

 13万石の収入に対して、年間1万石の赤字を出していました。村田清風が現れた天保期ほどではありませんが、大変な状態です。これに対して重就は主に

    ・検地による増収
    ・製紙業と製塩業の生産強化
    ・干拓事業

で対処します。検地は宝暦十一年(1761)〜十三年(1763)にかけて実施されました。これによって51,000石の増加がありました。今まで自助努力で増やしてきた田畑が課税対象になったわけですので、この検地は藩士にも農民にも非常に評判が悪いものでした。

 そして重就の特質は、この増収を藩の財政には繰り入れずに、「撫育方」という別会計を作って、その財源としたことです。その後撫育方によって数多くの事業が行われます。

    ・干拓
    ・生産強化によって荒廃した製紙業を立て直すためのに楮植林
    ・蝋産業を興すための櫨増産
    ・塩田の開発
    ・石炭の増産
    ・港湾整備
    ・倉庫業(越荷方)

 ただし負の面として、撫育方のお金を使って、重就の隠居屋敷建設、芝居興行も行われました。けれども芝居興行は、新しく作った町の振興策の意味合いもありましたし、屋敷建設で町人は潤いますので、全くの無駄遣いとは言えません。

 撫育方の会計は秘密でしたが、明治四年(1871)に萩藩主毛利元徳が70万両明治政府に献上しており、これは撫育方から出たと見られています。天保期に行われた藩士救済、四白政策、幕末の浦賀防備、京都周旋、銃砲購入の代金も撫育方から出ました。撫育方というユニークな制度が、長州を読み解くためのキーです。

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2006年7月13日 (木)

イギリスの国体問題

陰暦 六月十八日

 英The Economist誌のコラムに、民主制を考える上で格好の文章がありましたので拙い訳ですが紹介します。伝統に根ざした民主制とはどういうものかを感じ取ったいただければ幸いです。

 人を驚かすことを何よりも楽しみとなすケン・クラーク氏も彼の新聞での発表への反応には驚いたに違いない。保守党の民主委員会?(democracy commission)の委員長であるクラーク氏は保守党が政権を取った暁には、イングランドにのみ関わる法を立法する際には、スコットランド選出議員から投票権を剥奪すると言明した。

 これはウエスト・ローシア問題が蒸し返される兆候といえるだろう。この問題を30年前に最初に提起したのはタム・ダリエル氏である。1977年にスコットランドとウェールズへの分権問題の討議の時であった。「119人のスコットランド・ウェールズ・北アイルランドの貴顕達(選出議員)がイングランドの重要事項に対して口を挟めるというのに、イングランド人が彼等の事柄には口を出すことはできないという事態にイングランドの貴顕達(選出議員)と人々がいつまで我慢することができるだろうか?」

訳者注:イギリス国会とは則ちイングランド国会です。イングランド自治政府というものは存在しません。スコットランドとウェールズの自治が実現されれば、彼等は国会を通してイングランドの政治に介入ができることになります。

 1979年に自治法案は否決された。その後労働党が政権を奪還するまで18年間はこの問題は忘れ去られていた。1998年に自治法案が可決されて、この問題が再び浮かび上がってきた。イルビン大法官(Lord Chancellor:最高裁長官のようなもの)の態度に政府の見解が表れている「一番の解決法は考えないこと」。

 政府がこのスコットランドとウェールズの自治によって生じる憲法問題に対して呈示できる解決法は、イングランド人だけから選出される、イングランドに関わる問題を討議するための、政治的には権限はごく限定された会議を招集することだけであろう。ジョン・プレスコット首相代理のこのアイデアは、北東部の有権者の5分の4からの、そのような大規模なおしゃべり集会は必要ない、という表明(イギリス政界のことは詳しくないのでなんの事件を意味しているのか私には不明)によって実現性を失った。

 ブレア首相はウエストミンスターに二つの代表議会が並び立ってもうまく機能しないだろうといっている。首相が正しいかどうかは分からない。首相はもうあまり長くない残りの任期にこの問題に関わりたくないと考えているように見える。

 1997年と2001年に労働党は大勝したので、党内の謀反人ども(イギリスの議員は政府提出法案に割合気楽に反対することが可能)に対抗して法案を通すために政府がスコットランドの議員の助けを必要としたのは、大学の学費問題と健康保険の問題の2回だけであった(党内反対派に対処するために、労働党や保守党がスコットランド独立党の助けを必要としたことがかつては数多くあったのでしょう)。しかし2005年の選挙では与野党の勢力は伯仲した。従ってスコットランド選出議員(現在39議席)の帰趨が、イングランドに関わる法律(スコットランドではスコットランド自治政府がやることもイングランドでは国会が討議することになります、しかし国会ですので原則としてスコットランド選出議員も討議に口は出せます)を左右する事態は起きやすくなってしまった。

 ブレア政権におけるスコットランド人大臣の存在感も大きくなりつつある。ジョン・レイド内務大臣はイングランドの警察と刑事訴追業務を掌握している。けれども、彼の選挙区の警察業務は彼の管轄外である。ダグラス・アレクサンダー運輸大臣は彼を選出した人達とはなんの関わりもない法律を作る仕事をしている。

 ブラウン蔵相が首相になれば、キルカルディーとコーデンベースの選挙民には受け入れられない政策を実行する羽目に陥るだろう。スコットランド人は政府から一人頭£1,500受け取っており、その分イングランドは出超である。イングランド人の55%が、スコットランド人が首相になるのは不適切であると答えている。

訳者注:労働党のNo.2で次期党主最有力候補、財政引き締め政策を提唱している。スコットランド選出議員である。スコットランドは産業が少なくインフラも未整備なのでどうしても政府の福祉で生活する人が多い。EUでもスコットランドはフランスのブルターニュなどと並んで、後進地域として重点的に開発予算が配分されている。

【連合のコストは?】

 保守党の戦略は、憲法問題を持ち出して、政府を攻撃することであるが、混乱よりも解決策を探す法があるべき姿だ。イングランドにのみ関わる事項は、国会内のイングランド選出議員だけで討議するというのが一番穏当だと考えられる。

 しかし「イングランド問題」の著者であるロバート・ヘイゼル曰く「イングランドの法」というものは存在しないそうだ。イングランドの問題だけ討議する国会というのは、正統性の問題がある。これは長引く混乱の素だ。労働党の党首と保守党の党首がイングランドだけに関わる事項を討議する姿を想像するのは、だらしない感じがする。(ここら辺は外国人である私にはよく分からない感覚です、ウエストミンスターが大英帝国の国会でなく、イングランド地方議会になってしまうことには抵抗感が強いようです。)

 スコットランドとウェールズ選出議員を減らすという方法もあるが、同意を得るのは難しいだろう。保守党は自分で解決法を呈示しなければならない。ウエスト・ローシア問題が連合に亀裂を入れるとして、その結果に保守党は責任が持てるのか?

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2006年7月 7日 (金)

村田清風(二)…倹約政策

陰暦 六月十二日 【小暑】【成田不動尊祇園会】

 毛利敬親が再三にわたって重臣達に示した財政改革のビジョンを平川氏は次の四項目にまとめています。

    一、藩士住民の物心全般の救済を図り、士気を高揚し誠実勤勉の藩の美風を取り戻すこと
    一、武備を整え、武芸を奨励し外国勢力の侵犯に対する防備態勢を打ち立てること
    一、紙蝋米塩の四白政策を基本として殖産興業を大いに奨励すること
    一、財政の立て直しは全てに優先する、藩政にへばりつく妖怪を勇断を持って退治すること

 倹約政策を、経済に詳しい現代の人士は莫迦にされてしまう傾向がありますが、「武士の家計簿」という本を読めば分かるように、江戸時代の武士の生活というのは儀式とそれに伴う贈答が全てのような所があり、体面を保つために嫌々ながらも借金をすることを彼等は社会から強いられていました。

それに武士は親戚や同僚からの贈り物を当てにして生活している面もありますから、ある家だけ贈り物を已めるわけにもいかないのです。とくに魚や鹿猪といった蛋白源の摂取は贈答に頼っていましたので、贈答が止まってしまうと、場合によっては基礎的な栄養さえ確保できないと言うことにもなりかねません。

 「武士の家計簿」に取り上げられている金沢の藩士は財政家の家系なのですが、その財政の専門家からして、家計が破綻をすることを重々承知しながら三代続けて借金を重ねて家格を保ちます。家の人間が才能を発揮して出世すればするほどに出費がかさみ、やがて破産します。破産して初めて儀式の質を落とすのですが、それでも涙ぐましい努力をして儀式や贈答を挙行し続ける姿が描写されています。贅沢と言っても現代人とは覚悟が違うわけです。

 江戸時代の武士は家格を保つことが家のため、ひいては藩のためだと信じていました。ですから上から倹約令を出さないと止められないわけです。江戸時代の倹約令にはきちんと意味も効果もあったのでした。

 当時の長州藩は、藩主の襲封儀式のお金にも事欠く有様でした。国家老の益田元宣から財政実態を知らされた敬親は、派手な演出を已め、籠を已めて馬に乗り、木綿の紋付きで国入り道中をして藩政立て直しにかける決意を示しました。藩主が木綿の服を着て藩内を練り歩くなど、当時の感覚とすれば、恥づかしさのあまり憤死してもおかしくないほど破天荒な出来事でした。藩士と領民は涙が止まらなかったと言います。

 そして萩に入りいよいよ財政立て直しの会議をしばしば開き解決策を講じようとします。ここで注意して欲しいのは、敬親は必ず自分の前で会議を開かせて重臣達に様々な意見を出させた上で、自分で決断を下していることです。村田清風グループの政策を取り入れることが勿論多かったのですが、反対派である坪井九右衛門グループの政策を取り入れることもありました。必ず最終的決断は藩主である敬親が下しています。

 重臣の方も、幕末のように藩士を動かして示威行為をしたり、軍を動かして反対派を幽閉などということはしていません。藩政が正常に動いている限り、藩士は自由に意見を敬親の前で戦わせることができましたし、敬親は道理に基づいて決断を下し、藩主のお墨付きを得た政策に藩が一団となって従う体制が出来ていました。

 倹約をし、無駄な儀式や役人を減らしていくことで徐々に藩の財政状況は改善していきます。敬親と清風がひと味違ったのは、江戸や国元での奥、つまり藩主一族の女性達にも倹約を徹底させたことです。

 歴代藩主の正妻は将軍家をはじめとして蒼々たる家柄から来ていましたから倹約という物を知りません。また奥というのは不満分子が付け入る隙となりやすいもので、長州に限らず、いくつもの藩で財政改革を巡る権力闘争がいつの間にかお家騒動に成り代わって、政策の優劣とは関係ないことで藩士が罰せられる悲劇が多発しています。こうしたことが起きると人心が腐り、藩内に深刻な亀裂を残します。

 敬親は奥の女性達の不満を押さえて清風を支え続けました。これをみても敬親が凡愚ではなかったことが分かると思います。

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2006年7月 4日 (火)

村田清風(一)…長州藩の窮状

陰暦 六月九日 【上弦】

ちょっとした手違いでプロバイダーへ料金未払いになってしまい、しばらく回線を切られていました。いやはや情けない話です(^^;A

 江戸時代も中頃を過ぎるとどの藩でも財政赤字に苦しむようになっていたのは皆様よくご存じかと思います。参勤交代やお手伝い普請(幕府の命による公共事業)による出費がかさんだのに対して、歳入が米に偏っていたために、税収が元禄以降ほとんど伸びなかったことが直接の原因です。

 江戸時代には商業が大いに発展したにもかかわらず、諸藩は商人からあまり税を取りませんでした。あるいは当時の日本の為政者は、関銭と株仲間(同業者組合)からの運上金以外に有効な商人からの税金の取り方を知らなかったのかもしれません。江戸時代には関銭を取ることは禁止されていました。株仲間を作らせたとしても、そこから上がる運上金は定額なので経済の拡大を反映しませんから、やはり有効な財源とはいえません。

 検地も江戸初期以降ほとんど行われませんでしたから、諸藩は農民の所得の実情も把握していませんでした。いわば経済の規模が倍になって出費も倍かそれ以上になったにもかかわらず、税は据え置きだったわけですから、困窮しないはずがありません。

 ただし江戸時代の為政者を愚かだったと莫迦にするのも早計でしょう。税が低かったと言うことは庶民が潤っていたことを意味するからです。参勤交代による沿道の発展も大きいですし、お手伝い普請による治水工事は今でも感謝されているほどにしっかりとした物で日本の発展に寄与しました。江戸で武士がひたすら消費をしたお陰で経済は大いに発展します。今風に言えば、内需拡大のために政府が出費をすることで有り余る生産力を吸収していたといえるかもしれません。政府部門が有り余る生産力を吸収せざるを得ない日本経済の現状は江戸時代からの伝統であるのかもしれません。

 庶民の方も、よっぽどの飢饉の時はともかくとして、よく言われる農民の困窮というのはあまり実態を正確に映しているとはいえないと最近では言われています。何か少しでも災害があると、これ幸いとばかりに農民は藩に被害を過大に申告していたらしいのです。江戸時代の庶民の現実はまだまだ解明すべき点が多いといえます。

 さて長州藩も人並みに赤字にあえいでいたわけですが、天保期に更に追い打ちをかける出来事が相次ぎます。

    (一)第十代藩主毛利斉煕が江戸葛飾に十万二千坪の巨大な屋敷を建設


    (二)第十二代藩主毛利斉広と将軍家斉の第十八女和姫との婚儀が整い、盛大な婚礼が行われる


    (三)天保七年(1836)六月に防長を古来稀な暴風雨が襲う


    (四)翌天保八年(1937)、先代斉煕が葛飾邸で死去、後を継いだ斉元が参勤交代で萩帰国中に死去、更にその後を継いだ斉広が江戸の櫻田藩邸で死去。一年のうちに藩主の不幸が三代も続き、藩内の落胆もさることながら、莫大な葬儀代支出を強いられた。

 このような長州藩にとって未曾有の危機に毛利敬親は第十三代藩主となりました。毛利敬親は、小説のせいで無能な藩主という評判が立ってしまいましたが、聡明で意志が強い人物でした。幕末に尊攘派の要求に流されていたように見えるのは、彼等がテロにクーデタという非常手段を用いて、敬親に自分たちの意向を有無も言わさず押しつけたからです。敬親が決して凡愚ではなかったことも、おいおい説明していこうと思います。

 敬親は村田清風を葛飾手元役から引き抜き、江戸仕組掛に任命しました。江戸仕組掛とは財政改革の実務者のことです。江戸とありますが、江戸国元双方の財政を取り仕切る責任者です。これは村田清風を一代家老の地位まで引き上げたことを意味しました。

 そのころまでに清風は財政家として何度か藩政立て直しに関わっていたのですが、身分が低いために軽んぜられてうまく行きませんでした。それを見知っていた敬親は、彼に箔をつけて改革の実を挙げようとしたのです。藩という面子が何よりも重んぜられる世界を動かすツボを押さえていたといえるでしょう。

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