村田清風(四)…三十七ヶ年賦皆済仕法
陰暦 七月三日
すっかり週刊ペースになってしまいました。週に二回くらいは更新したいと思っているのですが、ちょこちょこと忙しいのでままなりません。そもそもブログは気晴らしにやるものですから、負担となっても仕方がないのでしばらくはこの調子でやっていくことになると思います。
村田清風に戻ります。村田清風が取り組んだ藩立て直し策の一つに下級藩士の救済がありました。近世初期と比べて物価は上昇していたにもかかわらず、ほとんどの藩士の俸給は据え置きでした。それどころか「御馳走米」と称して、俸禄の半分以上も藩が天引きをしていました。藩庫増収策としてお手軽だったからです。
武士はやがて日々の生活費にも行き詰まり、刀剣・槍・甲冑・馬に到るまで質入れしてやりくりする有様と成り果てました。
それに反して、上級武士や功績のあった武士は、藩から開墾の権利を与えられたり、下級藩士に金貸しをすることで裕福になっていました。さらに、先週見たように長州藩は撫育方という秘密会計を持っており、撫育方が黒字であることは明らかでした。撫育方もまた藩士相手に金貸しをしていました。
このように藩士や町人の一部が富み、藩を支えるべき藩士大多数が困窮する状態を清風は、「弟の物を取って兄に喰わせるような『四民貸殺』の制度」「同士食い経済」と糾弾しています。いざというときに兵士となって戦う藩士がこれではいくら撫育方に金が貯まっても意味はありません。
そこで清風は天保十四年(1843)、三十七ヶ年賦皆済仕法を発令します。
この方法は、藩庁から借りたお金は棒引きにしてやる、返さなくともよい、そのかわり今後は藩から(公借のこと)一切借金をしてはならない、なお商人から借りたお金(私借のこと)は藩が肩代わりして、藩が借りたことにし、藩は利子だけは毎年債権者に支払うが元金は37年支払い延期して、商人に待たせるという方法でした。
鎌倉時代の徳政や薩摩藩の更始(借金踏み倒しあるいは低利への借り換え?)と比べて穏当なモラトリアム宣言ですが、大阪や防長の金融業者は恐慌をきたしました。彼等は清風の反対派である坪井九右衛門と江戸藩邸の女性たちを援助して三十七ヶ年賦皆済仕法撤回を求めました。それは成功してしまい、翌天保十五年に「公内借捌法」が改めて施行されます。
これは公借を無借とし、私借も藩が立て替えるというものでした。結局藩は大阪の商人から五千貫も借りることになります。藩の歳入とほぼ同額です。撫育方を担保にしたと考えられます。
しかし、せっかく八万貫から半分近くにまで減っていた借金が増えてしまい、これは失敗であったということで坪井派は弘化三年(1846)に処罰されました。
けれども「村田清風入門」の著者は書いていませんが、公内借捌法によって藩士は相当息がつけて、藩に感謝をしたのではないかと思います。幕末に日本中を敵に回した時も、長州藩から内応者が出なかったのは、この時に藩が下級武士を助けたのを藩士が忘れなかったのも一因ではないかと私は考えます。
また、薩摩や熊本のように更始をしなかったことにより、上方で長州藩の評判は上がり、これもまた幕末に長州が京大阪で活動する時に大いに役立ったのではないでしょうか。
天保期の薩長を調べていて面白いのは、長州藩の方が律儀で藩士や町人との約束をよく守っているのに対して、薩摩藩は藩士や農民から搾り取ったり、町人との約束を破ることを屁とも思っていないのが見えてくることです。長州=軽薄、薩摩=実直という明治時代に作られたイメージがありますが、これは実態を表していません。あるいはこれは個人に当てはまるものであって、藩全体としては、薩長は後世に作られたイメージとは全く違っていた可能性があります。
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