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2006年7月 7日 (金)

村田清風(二)…倹約政策

陰暦 六月十二日 【小暑】【成田不動尊祇園会】

 毛利敬親が再三にわたって重臣達に示した財政改革のビジョンを平川氏は次の四項目にまとめています。

    一、藩士住民の物心全般の救済を図り、士気を高揚し誠実勤勉の藩の美風を取り戻すこと
    一、武備を整え、武芸を奨励し外国勢力の侵犯に対する防備態勢を打ち立てること
    一、紙蝋米塩の四白政策を基本として殖産興業を大いに奨励すること
    一、財政の立て直しは全てに優先する、藩政にへばりつく妖怪を勇断を持って退治すること

 倹約政策を、経済に詳しい現代の人士は莫迦にされてしまう傾向がありますが、「武士の家計簿」という本を読めば分かるように、江戸時代の武士の生活というのは儀式とそれに伴う贈答が全てのような所があり、体面を保つために嫌々ながらも借金をすることを彼等は社会から強いられていました。

それに武士は親戚や同僚からの贈り物を当てにして生活している面もありますから、ある家だけ贈り物を已めるわけにもいかないのです。とくに魚や鹿猪といった蛋白源の摂取は贈答に頼っていましたので、贈答が止まってしまうと、場合によっては基礎的な栄養さえ確保できないと言うことにもなりかねません。

 「武士の家計簿」に取り上げられている金沢の藩士は財政家の家系なのですが、その財政の専門家からして、家計が破綻をすることを重々承知しながら三代続けて借金を重ねて家格を保ちます。家の人間が才能を発揮して出世すればするほどに出費がかさみ、やがて破産します。破産して初めて儀式の質を落とすのですが、それでも涙ぐましい努力をして儀式や贈答を挙行し続ける姿が描写されています。贅沢と言っても現代人とは覚悟が違うわけです。

 江戸時代の武士は家格を保つことが家のため、ひいては藩のためだと信じていました。ですから上から倹約令を出さないと止められないわけです。江戸時代の倹約令にはきちんと意味も効果もあったのでした。

 当時の長州藩は、藩主の襲封儀式のお金にも事欠く有様でした。国家老の益田元宣から財政実態を知らされた敬親は、派手な演出を已め、籠を已めて馬に乗り、木綿の紋付きで国入り道中をして藩政立て直しにかける決意を示しました。藩主が木綿の服を着て藩内を練り歩くなど、当時の感覚とすれば、恥づかしさのあまり憤死してもおかしくないほど破天荒な出来事でした。藩士と領民は涙が止まらなかったと言います。

 そして萩に入りいよいよ財政立て直しの会議をしばしば開き解決策を講じようとします。ここで注意して欲しいのは、敬親は必ず自分の前で会議を開かせて重臣達に様々な意見を出させた上で、自分で決断を下していることです。村田清風グループの政策を取り入れることが勿論多かったのですが、反対派である坪井九右衛門グループの政策を取り入れることもありました。必ず最終的決断は藩主である敬親が下しています。

 重臣の方も、幕末のように藩士を動かして示威行為をしたり、軍を動かして反対派を幽閉などということはしていません。藩政が正常に動いている限り、藩士は自由に意見を敬親の前で戦わせることができましたし、敬親は道理に基づいて決断を下し、藩主のお墨付きを得た政策に藩が一団となって従う体制が出来ていました。

 倹約をし、無駄な儀式や役人を減らしていくことで徐々に藩の財政状況は改善していきます。敬親と清風がひと味違ったのは、江戸や国元での奥、つまり藩主一族の女性達にも倹約を徹底させたことです。

 歴代藩主の正妻は将軍家をはじめとして蒼々たる家柄から来ていましたから倹約という物を知りません。また奥というのは不満分子が付け入る隙となりやすいもので、長州に限らず、いくつもの藩で財政改革を巡る権力闘争がいつの間にかお家騒動に成り代わって、政策の優劣とは関係ないことで藩士が罰せられる悲劇が多発しています。こうしたことが起きると人心が腐り、藩内に深刻な亀裂を残します。

 敬親は奥の女性達の不満を押さえて清風を支え続けました。これをみても敬親が凡愚ではなかったことが分かると思います。

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