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2006年8月29日 (火)

村田清風(六)…兵制改革

陰暦 閏七月六日

 長州は三方を海に囲まれています。村田清風は迫り来る西洋列強の圧力をひしひしと感じていました。

 しかし交易が盛んで当時としては開明的ともいえる藩風を持った長州藩であっても、やはり長い泰平の時に馴れ、蛸壺的なお国自慢に流れて進取の心、そして尚武の気風を失っていたのでした。清風にはそれが歯痒く感じられました。「村田清風入門」から清風が説いた「四峠の論」を抜き出します。

「萩というところはな、おぬし達も知ってのとおり、海に向かって開けているものの、三方山に囲まれている。これは、山からの外敵を防ぎ、海からの侵略を水際に於いて打ち破るには都合がよいが、残念ながら人の行き来を阻み、文化の流入まで妨げてしまうのじゃ」
「此処から出ようとすれば、城下を取り巻く四つの峠を越えねばならぬ」
「時勢の進歩に後れぬ為には、この自然の防塞の中で眠りを貪り慢心していてはだめじゃ」

 隠居してからの清風は、屋根から飛び降りて敵船に飛び移る訓練をしたり、村人をつかまえては外寇が近いことを説いたので「戦爺(いくさじじい)」と呼ばれていたそうです。

 と言っても、精神論ばかり唱えていたわけではなく、きちんと長州藩を武士団本来の姿に戻すための改革も進めています。清風にとっては、藩の財政を立て直すのも、一朝事あれば日本のために奉公できる長州藩を作るためでした。

 これは近世の凡ての藩政改革に共通することです。いくら近世の藩が国産品を売り捌く総合商社の様相を呈していたとしても、武士団の究極の目的は國を守ることにあります。時代に合わせた改革は必要ですが、本来の目的を忘れた組織というのは、必ず腐るものです。藩政立て直しと兵制改革は必ずセットです。

 質に出した武具を買い戻すための資金援助という清風らしい地道な政策で一般武士の装備を調えさせました。天保十二年に幕府が高島秋帆に命じて行ったオランダ兵器製造と洋風軍学による操練に藩士を送って研究させています。そして天保十四年に羽賀台の大操練を成功に導きました。

 他にも軍学者の跡取りの吉田寅之助(松蔭)の学問をバックアップさせたのも清風でした(これは次回取り上げます)。甥である山田公章に命じて日本海側の巡検もさせましています。海防僧月性と情報交換をしていました。若き日の横井小楠をやりこめたこともありました。

 更に、麻生の長州屋敷に食糧や武器を貯蔵し、江戸の護りに役立てるために準備しておきました。これがペリー来航の時に役立ちます。幕府に沿岸警備を命じられて右往左往する諸藩を尻目に、長州藩は整然と江戸湾警備に就き、「長州藩侮り難し」の評判をとりました。

 意見書「海防献芹」では瀬戸内海全域の海防態勢を構築する必要性を説いています。清風の視野は長州藩を飛び出して「日本」を見ていました。

 幕末に長州藩が戦闘集団として気炎を吐くことができたのは、清風の兵制改革があったからこそでした。





荒らしが出ましたので、投稿拒否にしました(H190330)

2006年8月26日 (土)

持たざる国アメリカ

陰暦 閏七月三日

 中共や韓国との史観を巡る戦いは小泉政権によって決着が付きました。日本は中共の横槍を排除して好きなように自分の国の歴史を著述する態勢ができました。しかしここに来て遊就館の展示を米国が快く思っていないというような声が俄に高まっています。昔はともかく、今の遊就館の展示にははっきり言って反米的な要素はありません。どうやら彼等(米国その物なのか、"米国”を使って勢力を伸ばしたい日本人なのかは不明)が問題にしているのは「遊就館史観」といつのまにか呼ばれるようになった歴史理解その物らしいのです。

 面白いことに、彼等が撤去せよ、といってきた展示は東京裁判の受刑者を顕彰したコーナーではなくてルーズベルト政権が経済運営で行き詰まっていたという記述でした。これは一体何を意味しているのでしょうか?

 「持てる国と持たざる国」という色分けがそもそも歴史の理解を誤らせる罠であるのです。日独伊が当時の列強の中では貧乏国で持たざる国であったことに異論はありません。当然持たざる国なのですから富を奪おうとするわけです。帝国主義の時代では珍しくもないことです。(戦争中にあったかもしれない残虐行為はこれとは関係ありません)

 米国は「持てる国」に分類されています。だから持たざる国の侵略から欧州・支那・東南アジアを守ったという構図が成り立つわけです。しかし当時の米国というのは生産力と資本は世界一でしたが市場については持たざる国でした。英仏のブロック経済構築で困っていたのは米国も同じでした。

 また、米英に1930年代から協力関係が成り立っていたというのも現在の彼等の緊密な関係から来る誤解です。米英が信頼関係を持てるようになったのは、英国の弱体化が決定的となり米国の敵ではなくなったのが確定したサッチャー政権以降です。それまでは米英は足を引っ張り合っています。アラブとイスラエルの問題を米国に押しつけたのは英国であり、スエズ動乱では米国は英国を屋根の上に上げてからハシゴを外して見殺しにしていますね。1930年代の米国は、ポンド支配を崩すために英国に経済戦争を仕掛けていました。

 米国がナチスを不倶戴天の敵とみなすようになったのは、ドイツ復興のために莫大な投資をしてきたのに、ナチスがそれを踏み倒したからです。そして借金漬けのくせに、基軸通貨ポンドを握っているために、自由にならない英国を忌々しく思っていました。米国からすると、英国とナチスは商道徳を踏みにじる泥棒でした。

 結局1930年代の世界で自由貿易を行っていたのは日本と米国だけでした。日本が米国に頼っていたことはみなさまご存じの通りです。鉄・石油・棉などの戦略物資の半分以上を米国から仕入れていました。満洲も支那も消費地であり、大して資源はありませんでした。日本が満洲や支那を侵略しようとしたのは市場を欲したからであり、資源が欲しかったからではありません。

 北進論は米国と友好関係を保ちつつ満洲と支那を市場として開拓し、ソ連の極東侵略に備えるという戦略であり、南進論は東南アジアの資源を確保してアメリカと対決するという戦略です。北進論の陣営が東京裁判で醜態を演じてしまい、対する南進論の陣営が占領軍と円滑な関係を樹立したために、北進論が対米戦の犯人であったかのようなねじれた歴史理解が戦後に広まってしまいましたが、それは違います。

 日本は米国に頸まで漬かっていましたが、米国も日本に膝まで漬かっていました。1930年代後半の米国の輸出先を調べると鉄も石油も棉も日本が3〜5番目くらいの輸出国で20%くらい売っています。日本は1番ではありませんが、米国の生産物のほとんど全部の2〜3割を買ってくれるお得意様でした。米国としても日本を失うわけにはいかなかったのです。日米の経済一体化は既に1930年代に始まっていました。経済が一体化していた日米が大戦争に突入したのは二十世紀最大の謎かもしれません。多分当時の日本人も米国人も不思議だったでしょう(実際そのような証言は多い)。

 つまり1930年代の米国というのは、莫大な資本を抱えていたのに、英仏独の意地悪によって倒産しかけていた"金持ちな持たざる国"です。だから内戦で権力の空白が生じていた支那とナチスの欧州席巻で本国が滅んで力の空白状態となった東南アジアを市場として欲したのです。

 ですから当時の日米は実は協力関係になる可能性を持っていました。今までは「軍人が頑なで、戦争の成果を米国と共有することに大反対したから、米国と険悪になったのだ」ということになっていました。当時の日米は今の日米と逆で、日本が血を流し、米国がその成果をモリモリ食べていました。血を流さないで、自由貿易の果実だけ貪る米国への不満が日本にあったのは事実です。しかし陸軍がそれを代表していたという説を丸ごと信じるのは表面的に過ぎるのではないかなと思います。

 当時の米国はこのまま中程度の貿易相手国として日本を泳がせておくか、日本が支那を支配することを脅威とみなしてそれを妨害して支那を自分の勢力範囲に取り込むべきかで、意見が割れていたと私は考えています。1930年代の共和党の動向を研究した書物でもあれば疑問を解消できるのですが・・・

2006年8月22日 (火)

皇位継承順序プログラムvir1.0

陰暦 七月廿九日

私が調べた範囲で、皇位継承順序の決め方を分かり易くフローチャート方式でまとめてみました。


皇位継承順序プログラムvir1.0

アマチュアが作成したものですので、間違いもあると思います。お気づきの点がありましたら、御指摘お願いします。反映させてどんどんヴァージョンアップさせたいと思っています。

※前例重視になっています。

2006年8月16日 (水)

泉涌寺参拝記

陰暦 七月廿三日

 お盆ですので、岡山に行ってご先祖様に手を合わせてまいりました。その帰り道京都へ寄りました。目的は仏教徒としての皇室ゆかりの地を訪ねることです。

 京都駅からJR奈良線に乗り換えると、すぐに東福寺駅に到着します。東大路に出て赤十字病院を過ぎ、泉涌寺道で山手に折れます。しばらくするとがっしりとした総門があります。ここからが御寺泉涌寺です。

 参道の両側には即成院や悲田院、新善光寺等が並んでいます。三十七度を超える猛暑に汗が吹き出ます。百米ほど登ると大門が迎えてくれます。参観料は五百円。参観料の相場は千円ですので良心的です。

 門をくぐると、どっしりとした仏堂が目に入ります。泉涌寺が皇室の帰依を受けたのは後高倉院以来ですが、伽藍は応仁の乱で焼け現在残る建物は近世の再建です。仏堂は寛文八年(1668)に四代将軍徳川家綱に寄進されました。内部には運慶作と伝える釈迦・弥陀・弥勒が安置され、国の安全と人類の安泰と幸福を見守っています。

 仏堂の奥には舎利殿があります。これは慶長年間に御所の建造物を移転したものです。

 さらに進むと霊明殿があります。霊明殿中央御扉内には四条天皇後尊像と御尊牌(位牌)をはじめ、明治天皇、昭憲皇太后、貞明皇后、昭和天皇の御尊牌と御尊牌が奉安され、それ以前の先皇、皇妃、親王方の御尊牌は、左右の御扉内に奉安されています(泉涌寺のガイドブックより)。昭和天皇にも私達のご先祖様同様に位牌があることがわかります。私も手を合わせてきました。

 次に202循環に乗って東大路を上り、東山三条で下車、青蓮院に参拝しました。青蓮院は伝教大師(最澄)が比叡山を開山するに当たって作ったの僧侶の住坊のひとつ青蓮坊が起源です。法燈を継いだ著名な僧侶の住居となり、東塔の主流を成す坊であったといわれています。第十二代行玄大僧正(摂関藤原師実の子)に鳥羽法皇が御帰依になって第七皇子をその弟子とされたのが門跡寺院としての青蓮院のはじめです。明治に至るまで門主は皇族であるか五摂家の子弟に限られました。幕末に孝明天皇のご信頼を受けて公武の融和のために尽力された中川宮(久邇宮朝彦親王、香淳皇太后の祖父)も還俗する前は青蓮院の門主でした。現在の門主の東伏見慈洽名誉門主の祖父でもあります。

 境内は奥まで参観することが可能です。宸殿にはやはり歴代の天皇の霊を奉安した仏壇があります、南側には著名な青不動が安置されています。青不動には庭園を通ってお参りできるようになっています。皇居炎上の際に後桜町上皇が用いられた御学問所もあります。

 青蓮院には親鸞聖人と接点があって、青蓮院で慈圓(「愚管抄」の著者)について得度しています。明治まで本願寺の法王は青蓮院で得度する決まりになっていました。そして本願寺は青蓮院の脇門跡として門跡を号することが許されていました。

 ちなみに青蓮院の境内には子授け観音があり、私も秋篠宮妃の安産を祈念してまいりました。

 去年の暮れ以来の皇統問題で調べる内に、皇室は今でも仏教徒であることを知りました。明示の新政府が皇室を仏教から引き離そうとしたので仏教徒としての皇室は忘れられています。

 しかし考えてみれば、皇族は聖徳太子以来の日本最古の仏教徒です。そう簡単に仏の道を忘れるはずがありません。氏子として天神地祇に手を合わせ、家では先祖を仏式で祭るという日本人の文化を作ったのも皇族と摂関家でした。

 明治維新のときにできた国家神道のみが皇室の宗教で、神道でしか皇室と国民が心を通わせる方法がないと思い込むと、明治天皇の前には聖徳太子以前の皇族しかいないことになってしまい寂しい限りです。しかし、仏教に目を向ければ、歴代は十数年天皇としての職務を果たされた後は僧侶となって、悠々自適な余生を過ごすことが慣例でした。

 さらに、京都を取り囲む山には、さまざまな院が結んだ庵の跡が数多く残っていて、文字上ではない生きた人間としての皇族をしのぶよすがです。泉涌寺以外にも、後白河院が愛された法住寺、宇多天皇の仁和寺、聖武天皇の東大寺など皇族ゆかりの寺院は数多く、歴代の生きた証をたどることができます。

 皇室は私達の生活からかけ離れた国家神道を信じているのではなく、私達同様に仏に手を合わせ、氏子としては天照皇大神などの皇祖をお祭りしているのです。


8月17日一分訂正

2006年8月14日 (月)

村田清風(五)…四白政策と越荷方

陰暦 七月廿一日

 倹約も大事ですが、倹約だけではなかなか財政の好転は望めません。出るを制した次は入りを増やさなければなりません。

 長州藩は元々殖産興業に積極的でした。これは司馬作品でも良く触れられている話ですが、毛利家は中国五カ国百五十万石(小早川家などの親藩も入れれば二百万石強!)から関ヶ原の責任を取らされて防長二カ国に押し込められました。そのため毛利家は大リストラの必要に迫られ、多くの武士が農民や商人となり殖産興業に勤めました。

 この話は司馬先生の誇張ではなく「毛利重就」「村田清風入門」でも書いてありました。このようないきさつがあるため、長州は武士と町人の間の階級的な行き来が活発でした。武士もあまり商賈に対して偏見を持っていなかったのです。功労として武士が開拓予定地を賜り、新田開発を行ったりしています。

 殖産興業は「撫育方」でも触れたように、毛利重就が力を入れていましたが、村田清風も殖産興業の強化を行います。当時の長州の名産品は紙蝋米塩(しろうべえ)と呼ばれていました。楮(こうぞ)から作られる和紙、櫨(はぜ)から作られる蝋、遠浅の海岸を干拓して作った水田で収穫される米、そしてこれもまた瀬戸内海の静かな海で作られる塩です。四つとも白いので歴史学ではこれらの生産強化を「四白政策」と呼んでいます。

 楮は藩が金を出して植林が推進されました。櫨の植林も奨励されました。藩士は庭にまで植えることが命じられました。米も藩士にボーナスとして荒れ地の開拓権を与える形で開拓を奨励しました。ただしこれは半ば成功半ば失敗で、開拓というのは零細経営では失敗するものでして、後で藩が開拓権を買い上げて大規模開拓をする形に変わっていきます。山口県だけで80万石もの米を生産していたのですから驚きです。

 塩は瀬戸内海全域で塩田が作られたために生産過剰になって一時期暴落します。そのため生産調整がされるようになって値が持ち直したそうです。いわゆるカルテルですが、瀬戸内海全域の藩と生産者、農民を巻き込んだ大カルテルです。江戸時代ってすごいですね。こういう経済のダイナミズムがあったことを知ると、江戸時代のいわゆる「隠密」なるもの、もしかして企業スパイみたいなものではなかったろうかと考えたくなってきます。

 殖産興業の中で村田清風最大の業績は、藩の専売制を已めて村役人層に自由売買の権限を与えたことにあります。藩は商人から売上税のようなものを徴収することにしました。これによって、市場をよく知らない武士が低い値で特産品を売ることもなくなり、販売権が与えられたことで農民の利益も増えるので生産意欲の刺激にもなりました。ここら辺、奄美大島の島民の生活をコルホーズ並みに管理してサトウキビの生産統制を行った薩摩藩との違いが出ています。薩摩藩のサトウキビ政策のすさまじさと長州藩とは違った意味での近代的先取性についてもいずれ。

 生産拡大だけではなく、先進生産地から講師を呼んだりして品質向上にも努めたのは言うまでもありません。

 紙蝋米塩以外の特産品作りも奨励されました、「一村一品運動」の走りといえるかもしれません。副業に補助金も出しました。干し柿、干し大根、干し鮎、塩鮎、干しイカ、干しフグ、干し海鼠、干し鯖、干し鰯、鯨肉の塩漬け・みそ漬け・粕漬けフナの塩漬けなどの水産加工品に於いては大阪町人の人気を独占していました。他にも舟木櫛、赤間硯、蒲鉾、砂糖、石材なども有名でした。

 また、清風は越荷方貿易を始めます。当時は保存技術が進んでいませんでしたので、時期によって物資の価格が今よりも激しく変動しました。清風はそこに目をつけ、瀬戸内海と日本海の結節点である下関で藩営の倉庫業を始めたのです。商人は下関の倉庫に商品を預けます。そして市場価格が上昇する時に倉庫から出して売るわけです。

 別に下関じゃなくても大阪で良いではないかと思うかもしれません。しかし下関には、九州・日本海側・瀬戸内などの中心にあったので、どこにでもすぐに商品を運べるという利点がありました。市場価格は激しく変動します。あまり運搬に時間をかけすぎると時機を逸しますし、荷が傷みます。昔の船は木製ですから、水に漬かっていて湿気が常に高い船底というのは船荷が腐りやすかったのですね。船底はひどい匂いがしたといわれています。

 越荷方は大成功しました。倉庫を維持するだけなので世間知らずの武士でも可能です。売る時期は商人が考えてくれます。幕末に高杉晋作を支えた白石正一郎は、この時に清風から越荷方の運営を任された商人の一人です。白石正一郎にとっては、藩から戴いたお金を凡て藩にお返ししたつもりだったのでしょう。

2006年8月12日 (土)

エスパー魔美(一)

陰暦 七月十九日

 どうもしばらく頭痛がひどくて更新を休んでしまいました。先週がとりわけ忙しかったというわけではありませんが、社会人になって早四年、そろそろ仕事も責任が増えて知らず知らずのうちにプレッシャーがかかっていたのだと思います。来週は夏休みですので、じっくりと心身を休ませようと思います。

 今週はずっと「エスパー魔美」を鑑賞していました。昭和62年(1987)の春から始まった番組ですので、最初の10ヶ月くらいはみていません。ですから今回リリースされた分はほとんど初見です。

 エスパー魔美、スペシャルを入れて全120話。藤子・F・不二雄先生原作の漫画は60話ぐらいありますから、ほぼ半分が漫画をアニメに起こした物語、半分はアニメオリジナルですが、今回のは一年目ですので八割方原作ありの作品。原作の方は学生の時に漫画で読みました。

 私はエスパー魔美が藤子・F先生の集大成であると思っています。ご存じの通り、藤子・F先生の漫画は長方形のコマ割中心で、枠を外したコマもなかなか作らない超古典的な作風です。それなのにあの広がりのある世界。そして大人しいようでいて、変転に富んだストーリー。あれこそが漫画であると私は思っています。

 アニメのエスパー魔美ですが、漫画の良さを良く引き出していました。脚本が富田祐弘氏(ペルシャのシリーズ構成・脚本、ウエディングピーチの原案)、もとひら了氏(クレヨンしんちゃん・マンガ初めておもしろ塾脚本)という今では大家となった方々が固めています。尺の関係で漫画にないシーンも当然挿入されているのですが、邪魔になっていません。

 藤子アニメは全体的に漫画と良く調和しています。藤子先生自体がスタジオ・ゼロというアニメ会社を立ち上げており(シンエイ動画の前身)、アニメ会社に意図を伝えるのが上手なのでしょう。というよりは、藤子漫画と藤子アニメの脚本を書く人が共通なので、だからお互いイメージを壊すことなく統一された世界を作っているのかもしれません。スタジオ・ゼロからシンエイ動画の藤子作品(及び赤塚ギャグ・石ノ森作品)の流れは、日本で初めて成功したメディアミックスのエンターテイメントとであったのかもしれません。

 私は漫画にも毎回スタッフロールを出して欲しいと最近思っています。特に小林よしのり先生や弘兼憲史先生のように最近は漫画が政治運動と関わりを持っているという現実があり、同じ漫画家が脚本家や出版社の違いにより180度違うことを主張したりしていて読者は混乱します。スタッフが公開されていれば、漫画家が変節漢のような評価を受けることもなくなると思うのです。

 さて、「エスパー魔美」ですが、これから気に入ったお話をいくつか紹介しようと思います。まず好きなのは第4話の「友情はクシャミで消えた」。高畑君の「僕は嘘が嫌いなんだ、嘘をつくのもつかれるのも」という言葉と、その後魔美ちゃんをかばうために嘘をついて、魔美ちゃんが「高畑さんが嘘をついてくれたのよ、私のために、これって素敵なことじゃない!」この台詞が大好きです。

 第6話の「名画とオニババ」もいいですね。魔美ちゃんが間違えて二人の人間に一枚の絵を売ってしまったことで、古い友人が再会する。街金の女社長が妙にリアルです。ものすごい仕掛けがあるわけじゃない、なのに思いもよらないどんでん返し。ストーリー展開が本当にうまい。藤子作品の真骨頂です。

 第14話「大予言者銀河王」、これは高畑君のスマートさが存分に発揮されている話です。ストレートに種明かしをしないで、銀河王と同じトリックを使って一旦魔美ちゃんを騙す所が憎い。

 第18話「サマードッグ」避暑地で、休み中だけ子犬を飼って捨てることで山にはびこった哀れな野犬たちがテーマ。もしかして漫画と違う結末にされているか心配でしたが、きちんと同じ結末でした。人間のエゴに振り回されただけであるのに最後野犬たちは全部駆除されてしまうのです。しかしこういう現実は子供にも知らせる必要があると思います。

 第44話「ハートブレイクバレンタイン」これはアニメオリジナルです。今回初めて見ました。これもアニメオリジナルのキャラですが、ノンちゃんがメインです。渕崎ゆり子さんが声を当てています。サクラ大戦の李香蘭まんまの顔と髪型と眼鏡、て言うかサクラ大戦の李香蘭がノンちゃんの真似なんですね(笑)渕崎さんには眼鏡ッ子が似合います。

 魔美ちゃんのお節介で片想いの先輩の本当の姿を知らされても「そんなの知りたくない」と言ってのけるノンちゃんが少女らしくて非常によい。部屋に閉じこもってヘッドホンでヘビメタを聴いているのもなかなかの演出であると思います。目立たない子がヘビメタに入れ込んでいるというのがいいですね。ただしこの話は一つだけつっこみどころがあって、チョコレートを直火で溶かしたら駄目だってば!スタッフには女はいなかったのかよ!これでは魔美ちゃんが塩を入れなくても失敗です。

 「エスパー魔美」は日本アニメの最高傑作の一つです。ヌードシーンがあるから外国で放映できないのがまことに惜しい。6万円とまことに高価ですが、その価値は十分にあります。そして図書館にも置いて欲しいです。シンエイ動画がポニーキャニオンから自立して自分でDVDを作り始めましたから、これから藤子作品がどんどんリリースされるはずです。ジブリやディズニーだけでなく、藤子アニメも図書館に置いてください。

 明日から田舎に帰ります。それでは皆様もよい夏休みをお過ごし下さい。

2006年8月 5日 (土)

セレブ

陰暦 七月十二日

 私も気に入らない言葉というのがいくつかあって、「セレブ」もその一つです。

 セレブってなんだ、英語の元々の意味は著名人ということらしい。上流階級でいいのではないかと思うのですが、日本での用法を見ると、上流階級よりはワンランク落ちる人達らしいです。芸能人やベンチャービジネスの社長がよく呼ばれます、成り上がり者という意味合いがあるようです。

 セレブは生活文化と一緒に紹介されることが多い。セレブはこんな服を着ている、こんな車に乗っている、こんな物を食っている。

 このあたりで私は気がつきました、「セレブ」は昔からあったある言葉の言い換えなのではないかと。

 そう、成金です。

 セレブが指す人達の出自、趣味、成金その物じゃないか。セレブという言葉に感じる隠微な響きは、侮蔑を隠していたからではないのでしょうか。

 これからは「セレブ」と呼ばれる人を見たら「成金なんだな」と思いましょう。

2006年8月 3日 (木)

夏バテです

陰暦 七月十日

夏バテになったみたいです。何となく元気が出ません。

ブログの再開は土曜日以降にします。

みなさまも健康にはお気をつけ下さい。

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