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2006年9月25日 (月)

オウムの賠償

 ニュースでサリン事件の被害者の悲惨な現実が報道されていました。
 オウムは37億円の賠償責任を負っていて、3分の1を既に支払ったそうです。少ないと見るか多いと見るか。私は多いと見ました。
 非情になって考えると、オウムから賠償金を取ることにはいくつか矛盾があるような気がします。
(1)オウムの財産は信者から巻き上げたお布施でできているが、それを賠償として接収することで、信者側の被害者の賠償が進まなくなるのではないか
(2)オウムがこれからも存続しないと賠償金を取れないのでオウムをつぶせないという矛盾がある。

だからといってどうなるものでもないのですが、難しいですね。

2006年9月22日 (金)

ネーミング

 最近スーパーで「植物性乳酸菌飲料」というのを見かけました。

 でもよくよく考えてみると、植物性乳酸菌ってぬか漬けの菌のことですよね。

植物性乳酸菌・・・なんだか身体に良さそうです。20代のOLとかが飲んでいそうです。

ぬか床の絞り汁・・・なんだか臭ってきそうです。お新香に付いているぬかをつまむのが好きな私もこれは遠慮したいです。ドロンパも裸足で逃げ出すでしょう。





 これぞまさしくネーミングの妙だと思いました。

 ジュースのメーカーさんへ:ジュースの売り上げが落ちても私を訴えないでください。

2006年9月17日 (日)

これはマズいんじゃないか?

陰暦 閏七月廿五日

法王講話イスラム反発 世界各地「聖戦」批判に謝罪要求も

    【パリ15日井手季彦】ローマ法王ベネディクト16世がイスラム教の「聖戦」を批判したとして、イスラム社会に反発が広がっている。米中枢同時テロから5年が経過、米欧とイスラム圏の融和が世界平和のかぎとなる中、新たな宗教的な対立が顕在化した形だ。  ロイター通信などによると法王は12日、ドイツのレーゲンスブルク大学で行った講話で、何度も「聖戦」という言葉を用いながら「(イスラム教創始者の)ムハンマドは剣によって信仰を広めよと命じるなど、世界に悪と非人間性をもたらした」という14世紀のビザンチン皇帝マヌエル2世パレオロゴスの言葉を引用。暴力と神は相いれるものではないとしたうえで、「ギリシャ哲学を土壌にした豊かなキリスト教を守れ」と訴えた。

(西日本新聞)

これはかなりまずいのではないだろうか。

特に赤字の部分、これは暗にユダヤ教批判になっています。

 皆さんご存じの通り、キリスト教は元々ユダヤ教の改革からスタートしています。イスラム教もユダヤ教を受け継いでいます。その後ヨーロッパのキリスト教はギリシャ哲学を借りて神学を体系づけました。ですからエチオピアやアルメニアのキリスト教はギリシャ哲学の影響を受けていません。ギリシャ哲学はローマカトリックとギリシャ正教を特徴づけています。

 ベネディクト16世の言葉は、中東起源の宗教は好戦的であるが、ギリシャ哲学を取り入れたヨーロッパのキリスト教は平和の宗教となった、とも受け取れる内容になっています。イスラム教だけではなくユダヤ教も非難しています。しかし、ギリシャ哲学を取り入れたローマカトリックだって、十字軍運動を起こしたり、魔女狩りをやったりしていますから、これは正しくありません。

 やはりローマ教会内部にはアンチセミティズム(反セム主義、則ち反ユダヤかつ反アラブ)が未だに根強く残っていることを意味しないか。ヨハネ・パウロ2世によって、やっとカトリック教会が持っていたそういった異文化差別的な側面から足を洗ったのにこれでは逆戻りです。

 しかも今度レバノンに派遣される国連軍はカトリックのフランス軍とイタリア軍が主力です。

 これでは今後しばらくカトリック教会が宗教対立を取り持つことが不可能になってしまう。なんという失言をしてしまったのか。あのカトリック教会がすぐに発言を取り消したことから、教会も事の重大さに気がついているのでしょう。何事もなく、人々の記憶からこの失言が消えてくれることを望まないではいられません。

2006年9月15日 (金)

村田清風(七)…人材育成

陰暦 閏七月廿三日 石清水八幡宮祭

 村田清風は人材育成に心を砕きました。偉くなってからも、一丁声(一丁先にも届くばかでかい声)で若者を叱咤激励し続けました。

 「病翁の宇和言(うわごと)」には「國に人無し人なしと申し候へども、私は更に合点が参らず候。東西五百里南北百里の、この蜻蜒州(日本)に、天地よりその國を治むる程の人を産せずということは、これあるまじくと考へ候。加藤清正は鍛冶屋の子、福島正則は桶大工の子、小西行長は薬屋の息子達、唯人の才能を見て活用するにあるべし。」人材がいないのではない、人材発掘をしていないのだ、育てていないのだというのです。

 まず天保十一年(1840)に文学興隆令を発令し、身分にかかわらず、有為の才を学校に入れるべきであると、勧学奨励を進めました。つづいて江戸在藩の士の師弟のために櫻田邸内に文学修養所を設立します。

 天保十二年(1842)に、藩主毛利敬親は明倫館拡充の大施策を発表します。国家老益田元宣を学校惣奉行とし、村田清風を明倫館重建手元役とし、嘉永二年(1849)に竣工をみました。聖廟、講堂、学校御殿、剣術、槍術、礼式、天文、算数、兵学、写術、水練池、練兵場と師と学生を収容する学舎をそろえた国内五指に入る堂々たる学館が整備されたのでした。テキストの改定も進められます。これは清風の死後に実現しました。

 清風は引退してからも、三隅の邸宅で近所の師弟に学問をつけました。

 もう一つ、清風の人材育成として忘れてはならないのは吉田松陰との関わりです。ここには私の推測も入るのですが、長州藩は学問の興隆を図るために、俊英吉田虎之助(寅次郎・松蔭)をアイドルとして演出します。11歳の時に藩主敬親に山鹿流軍学を講義し、鮮烈なデビューを飾らせます。それ以後も平戸や江戸などへの遊学を援助、佐久間象山に弟子入りさせるなど、寅次郎の学問を藩で全面的にバックアップしました。

 学問をすれば出世ができる、長州藩には若くして日本一の大学者と肩を並べる俊才がいる、ということで長州藩を元気にする意味合いがあったと考えられます。寅次郎は藩の期待に良く応えました、それどころか長州藩を超えて日本全国を動かす大人物に寅次郎は育っていくのです。

 村田清風と吉田松陰の間には数通の書簡といくつかのエピソードがあるのですが、私が一番好きなのは、松蔭が密航に失敗して幕府に捕らわれた時に清風が松蔭に「はやる気持ちは分かるが命を大切にしなさい」という手紙を送った話です。

 幕末の長州藩というと、身の危険を顧みずに次々と若者達が命を落としていき、見ている方はやりきれません、松蔭は私が先に死んで模範を示す、みたいなことすら言っています。どうもこの死を軽んずる風に私は付いていけません。そんな中、松蔭の身の心配をした清風の優しさに触れるとほっとさせられます。このエピソードを知ったのが、私が長州藩を見直すことになったきっかけでした。

 松蔭は野山獄で清風の死を知らされ、追悼の詩「前の参政、村田翁を挽す」を作りました。その率直な悲しみの言葉に、松蔭にとって清風がいかに大きな存在であったかを感じないではいられません。

 それでは最後に清風の気概に触れて、村田清風のシリーズを終わりにさせたいと思います。

2006年9月14日 (木)

ネアンデルタール人

 ネアンデルタール人が二万数千年前まで地球上に存在していたことが確認されたそうです。クロマニヨン人は三万年位前にはヨーロッパに進出していましたから、人間とネアンデルタール人は長い期間(数千年)一緒に生活していたことになります。そこでちょこちょこっとネアンデルタール人をぐぐってみました。

 ネアンデルタール人が我々の直接の祖先という説はほぼ葬られたらそうです。けれどもネアンデルタール人と現生人類の混血っぽい骨はいくつか見つかっているとのこと。多分ライオンとヒョウよりは近いのでしょうから、子供は作れたのでしょうね。混血がいたとしてもどこかで絶滅したのかもしれません。

 そこで私は考えてみました。人類とネアンデルタール人が交配できたとしても、その子孫は生殖能力は低いのではないか、だとしたら三万年前の人類は奴隷を作るためにネアンデルタール人の雌を狩って種付けして、子孫を作る心配はないが、適度に知能があって奴隷としては最適の人類とネアンデルタール人の混血を作っていたのではないか。ネアンデルタール人は筋力が強かったそうですから奴隷として最適です。

 あんまり救いのない想像ですが、ほろ酔いの頭に何となく浮かびました。どうも私はあまり人が良くないようです。

2006年9月 7日 (木)

新宮様の御誕辰

秋篠宮殿下におかれましては昨日
新宮様御誕辰あそばしました。

微身ながら
御皇室の弥栄をお祈り申し上げます。

天皇陛下萬歳

2006年9月 5日 (火)

皇室改革:私家版

 こうしてみると、皇族というのは家長が天皇及び上皇であり、取り敢えず皇族という一族の家長としての天皇を「治天」と呼ぶことにしますが、治天の命令がないと養子を取ることも皇族同士で結婚することも何もできないように伝統的になっていることが分かります。

 しかし、明治及び昭和の皇室典範では治天の家長権が否定されています。皇室会議に天皇は出席できません。普通の旧家だったら当然するような血筋を守るための養子や一族内での結婚といったことができない仕組みになっている。

 私が考えるに、皇族の先細りを防ぐためには、皇族の家長としての天皇の地位を認める皇室典範を作るしかない。憲法で定める国事行為をする天皇は、基本的に誰にでもできる事柄ですから、細かい皇位継承順位まで法律で決める必要はない。法律では、例えば全く皇族とは関係のない人間が皇位に付くようなことがないように、皇族の範囲を決める程度にして、皇族の家族内のことは皇族で決めるようにする、普通の家族ならできる養子・政略結婚(ちょっと言葉が悪いですが)・場合によっては継承権利者を増やすための短期での皇位の持ち回り(親王が増えるからです、前例は多数あります)などあらゆる手段の使用を治天に認めさせるべきです。

 政府の方では、皇族がどのような行動を取ろうとも、国政が混乱しないような法整備をする。サポートをする。あるいは皇族増加で心配される外国スパイの接近を防ぐ。といったことが求められます。

 例えば一代一元は短期の皇位継承があった場合事務的に面倒なのでやめでも良いでしょう。それと、生前譲位の権利は絶対に必要です。後水尾院の行動を見ても分かるように、これは天皇に与えられた最後の自分を守るための権利です。

 私としては、宮内庁を日本銀行方式の独立行政法人にするのがいいと思っています。

 そして、私は伏見宮系だけではなく、公家も復活させるべきと考えています。摂関家は皇族の半身です。藤原氏なくして皇室は存続できません。宮中儀礼の次第を受け継いでいるのは藤原氏です。清華家くらいまでは何らかの形で復活させてもいいはずです。名前だけでもいいのです。あるいは全くの名前だけですが、儀礼的な摂関や太政大臣(儀式の折の役だけです)を任命するというやり方もあります。

 文化・国防・皇族の人権、あらゆる観点からの議論が求められるのです。

2006年9月 3日 (日)

肉を食べる戦国武将

 今日の「功名が辻」で山内一豊達が陣中で鶏鍋を食べていました。

 時代考証的には正しく大進歩なのですが、時代劇で肉食が出てきたのはこれが初めてではないでしょうか?正直驚きました。

 日本における肉食というのは、今で言うセックスと同じで、みんなやっているけれど、人前では口にできないこと、という扱いでした。明治に肉食が解禁されて大騒ぎになったのは、人前で肉を食べることが大変に破廉恥だったからだと思われます。ふりちんで街中を歩くのと一緒だったのだと思います。

 明治天皇が東京へ移って真っ先に行ったのは皇室専用の牧場を作ることでした。私は公家は飛鳥時代以来ずっと、江戸時代にも牛肉と牛乳を口にしていたと推測しています。精をつけるためには必要だからです。だから明治天皇は率先して肉食ができたのだろうと思います。また孝明天皇は肥満体でした(あの肖像画は嘘)。

 太閤さんは伴天連に呼ばれてビーフステーキを食っていたそうです。農民が鳥獣を食っていたのは公然のことでした。お坊さんも、信徒からの布施であれば肉でも食べます。貰ったものは拒んではいけないことになっているからです。自分が殺さなければいいのです。お釈迦様の死因は腐った豚肉を食べたことによる食中毒です。

 日本史上本当に肉を食うことがなかったのは、あるいは江戸の武士と町人だけかもしれません。江戸の栄養状況はとても悪かったそうですから。

2006年9月 2日 (土)

皇族の養子及び女性宮家の継承

皇族の養子になる要件を前例に基づいてまとめました。

皇族養子プログラムvir1.0

過去に存在した、女性宮家に最も近い存在であると考えられる八条院領の継承を図にまとめました。

八条院領の継承





荒らしが出ましたので、投稿拒否にしました(H190330)

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