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2006年10月15日 (日)

南海の斎藤道三(三)

陰暦 八月廿四日 【新宮熊野速玉大社祭】【天理石上神宮例祭】【姫路喧嘩祭】

 十月に入ったにもかかわらず二十五度近い日が続いています。でも旧暦だと今年は閏月が入ったのでまだ八月、ということはお彼岸と同じくらいの暑さでもおかしくはないことになります。旧暦は良くできている。

さて

 もうちょっと調べてみた所、伊作忠良の祖父の久逸は一応相州家の出ということになっているみたいです。

 しかし、wikipediaの記事を信用すると、久逸の経歴は

相州家→伊作家→伊東氏被官→相州家と戦→相州家に敗北→伊作家

 ということになってはっきりいって変です。伊東氏の被官よりも伊作家当主の方が上のはずなのに何で「伊作家に帰ってこい」という相州家からの呼び かけを拒否して伊東氏と一緒に伊作・相州連合軍と戦わなければならないんだ?これは久逸には、本来は伊作家を継承する権利がなかったのに、伊東氏と一緒に 島津と戦って伊作家を乗っ取ったと考えた方が自然ではないのか?

 しかも、子供の善久は30くらいで下男に殺害されており、数年後に久逸も戦死している。そして善久の未亡人が子供(忠良)が相州家を継承するとい う条件で、相州家の島津運久に嫁入りして、忠良が成長してめでたく相州家を嗣いだとなっていて、話が出来すぎではないのか?素直に信じる気にはあまりなれない。しかも忠良は途中まで寺の小僧だったというではないか、これではますます斎藤道三である。

 きっと忠良の母 親というのが鍵なんだろうな。実家が富裕な土豪で零落していた島津家が争って嫁に引き込んだのだろう。忠良が善久の落とし胤というのも、丁度忠良が生まれたころに伊作家が断絶したのを利用した後付だろう。ていうか善久を撲殺した下男が忠良の実父なんだろう、話の筋から言うと。密通がばれた間男が旦那(善久)を殺したんだな。それで不義の子である忠良は寺に預けられたけれど、実力で島津家を乗っ取ったのだろう。

 というわけで伊作久逸ー善久ー忠良は島津家かどうかすら怪しいので、忠良が南海の斎藤道三という主張はそのままにしておきます。

私が作った系図。(検証はしていないので半分飛んでもです)

伊作教久(伊作家断絶)


伊作久逸(伊東氏被官?)

善久←無関係→○=女=島津運久
        |
        伊作忠良
        |
        島津貴久
        |
        島津義久、義弘

 応仁の乱後の世界というのは想像以上に無秩序だったのかもしれません。守護や守護代は名跡は続いているものの、血縁関係は滅茶苦茶みたいです。司馬遼太郎の「国盗り物語」よりももっとアナーキーだったのではなかろうか。織田信長の織田家も、実は斎部氏で、守護代の被官の織田家を乗っ取ったらしいし。斎藤道三や伊作忠良を主人公にした冒険活劇なんか作ったら面白いかもしれませんね。

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