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2007年2月16日 (金)

応仁の乱後の畿内(五)

陰暦 十二月廿九日

 細川政元には子がなかったため、前の摂政太政大臣九条政基の子の澄之を養子にとりました。澄之は将軍義澄の従兄弟です。しかし政元は後で他家から養子を迎えたことを悔いて、阿波細川家の澄元を養子に取りました。

 一族の強い結束のお陰で細川氏は、熾烈な幕府内の権力闘争を勝ち残ってきたのに、ついに細川家にお家騒動の種が持ち込まれたのです。澄元の供となって阿波から上洛したのが、三好之長です。之長は三好長慶の曾祖父に当たります。

 三好氏は承久の乱の恩賞によって阿波守護職を得た小笠原清光の子孫です。小笠原氏は阿波一円に根を張りました。正平年間に三好氏が細川清氏の配下となって戦っていることが記録に見えます。三好氏は阿波における細川被官の筆頭でした。

 阿波細川家の台頭によって、摂津・讃岐の細川家被官が危機感をいだきます。嫡子から外された澄之の補佐で山城守護代の香西元長(讃岐出身)、摂津守護代薬師寺忠長らは、澄之を中心にまとまります。

 永正四年(1507)、彼等は政元を暗殺。澄元・三好之長を襲撃しました。二名は逃亡します。その結果、澄之を細川家惣領とすることに成功します。

 しかし二ヶ月後、細川高国(備中)、細川政賢(摂津)、細川尚春(淡路)らに攻められて澄之・香西元長・薬師寺忠長は討死にします。このようにして、細川家の分裂によってついに畿内も幕府の命令が全く届かなくなって実力本位の時代がやってきました。

 注意して欲しいのは、下克上になる前に秩序を破っているのが必ず上の人であるという点です。応仁の乱は八代将軍義政が弟に将軍職を譲るという約束を、実子が生まれたことを理由に反故にしたことが原因となりました。畠山氏や斯波氏の分裂の原因は、六代将軍義教が、守護弱体化のために家督相続に介入して、本来ならば相続するはずがない人間を家督に立てたことにあります。

 今また管領が摂関家から迎えた養子を廃したために細川家も分裂しました。この後も、守護が守護代を騙し討ちなどという事件が各地で発生します。将軍・管領・守護といった人達が秩序を破ったために、被官の方でも身を守るために実力でもって上位の人間を押さえつけざるを得なくなったのが戦国時代の下克上の発端であったのです。

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