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2007年2月12日 (月)

「応仁の乱後の畿内(四)」

暦 十二月廿五日

 ですので、戦国時代になって、守護が任地で邪険に扱われるようになったとはいえ、それがそれまでの状態と百八十度変わったかというと少々事情が異なります。

 もともと守護は任地にはいませんでした。鎌倉時代から豪族による荘園の押領はずっと続いていましたが、幕府がしっかりしていた時代は、その都度、 豪族の権利を拡大しながらですが、古い権威も立てるように命令が出されていました。これが応仁の乱で十年間も幕府が内部争いに没頭されるようになると、豪 族の押領を止める人が誰もいなくなります。そこで守護態勢を立て直すために守護達は初めて任地に帰ることを余儀なくされますが、亭主元気で留守が良いと言 いますか、帰ってこられた所で守護代も迷惑なので体の良いお飾りにしかなれませんでした。守護の居場所は任地には最初からなかったからです。

 しかし、畿内から離れた周辺地域では、守護に強い権限が与えられていて、南北朝時代に荘園制も崩壊していて公家の方ももう諦めていますので、半分 守護の領土みたいになっていて、幕府としては反乱さえ起こらなければそれで良いというスタンスでした。大雑把に言って、室町時代には、近国は年貢を取るこ とが目的で、遠国は反乱を起こさないことが幕府の目的になっていたといえるでしょう。

 この遠国の守護というのが、四国の細川氏、周防長門の大内氏、豊後の大友氏、駿河の今川氏、甲斐の武田氏あたりです。この辺は同じ一族が室町時代 の初めから百年以上ずっと守護であり続けることに成功していましたので、一族郎党のネットワークも強固に張り巡らされていました。ですから応仁の乱の後も 戦国大名に移行できたのだと考えられます。

 それに対して、出雲なんかは京極と山名の間で守護がコロコロ入れ替わりましたので、守護ではなく、守護代の尼子氏の方が実権を握ることになりまし た。播磨も嘉吉の乱さえなければ赤松氏が戦国大名になっていたかもしれませんが、嘉吉の乱で一旦赤松氏のネットワークが破壊されたので、豪族達の自立が強 まりました。信濃は小笠原氏が守護でしたが、小笠原氏は国全体に一族を張り巡らせることに失敗します。盆地が散らばっている土地柄ですので、そういうやり 方はうまく行かなかったのでしょう。

 室町時代には、守護が国の中心にいて、守護代に命令を下していたのに、戦国時代になって、守護代が言うことを聞かなくなった、という下克上のイ メージは少々実態と違います。守護は最初から任地にはいませんでした。応仁の乱の後に初めて国に帰ったけれど、居場所がありませんでした。けれども、守護 が現地にいることが多かった遠国では、守護がそのまま戦国大名に移行できました。

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