応仁の乱後の畿内(六)訂正版
間違いが見つかりましたので大幅に訂正します。三好之長を殺害したのは細川高国でした。細川澄元は三好之長と一時期不和になった物の、最後の段階では両者は行動をともにしていました。どうも人間関係が入り組んでいますので気をつけないと間違ってしまいますね。澄みません。
細川澄元は細川家の惣領になることができましたが、保護者であったはずの三好之長が今度は疎ましくなりました。
京都の戦乱を好期と考えた廃将軍義稙(義材)は、大内義興の援助を受けて、中国九州の兵を率いて瀬戸内を攻め上ります。
細川政元には高国という三人目の養子がいました。当然この高国は澄元と折り合いが悪く、実力者の三好之長とも対立したため、従兄弟の仁木高長を頼って伊賀に落ち延びました。この後数十年間、澄元と高国、及びその子孫が細川家の家督を争って、室町幕府を徹底的に破壊しました。これを両細川の乱と言います。
高国に付いたのが、澄元に嫌われ、之長に不快を懐いた摂津・丹波の国侍でした。こうして京都は、阿波勢、摂津丹波勢、南近江の六角勢の三つ巴の勢力争いの場となります。ここに時折、周防長門の大内氏や播磨の赤松氏や河内紀伊の畠山氏が介入します。
永正五年(1508)、細川高国は廃将軍義稙を堺に迎えます。義稙は将軍に復帰し、高国は細川家惣領となります(管領になったとも言われています)。その後十一代将軍の義澄が死去したため、義澄の子の義晴(十二代将軍となります)は義稙と和睦しました。永正十五年までこの和平は守られました。西国の雄大内義興が大軍で京都に駐屯して睨みを効かせていたお陰です。しかし、長陣の出費に耐えかねて義興は撤退して、畿内は再び混乱の渦に巻き込まれます。
澄元と三好之長が畿内周辺で跳梁して義稙・高国政権を脅かしました。この頃、大山崎の油座が澄元に兵力を提供しています。大山崎の油座と言ったら松浪庄九郎(斎藤道三)ですね。大山崎というのは京都の入り口であり、一大商業地でした。当然自衛のための兵力を持っています。その油座の実力者であった松浪庄九郎というのはただの行商ではないのです。
永正十七年に三好之長は京都を攻め落とします。高国は近江に逃亡、京都に取り残された将軍義稙は澄元の細川家惣領を認めます。しかし二ヶ月後、今度は細川高国が近江の六角・朽木・蒲生、越前の朝倉、美濃の土岐の兵力を京都に引き入れて三好之長を急襲しました。丹波からも内藤氏が攻め込みます。万事窮した之長は市中を逃亡した末に降伏します。高国は助命の約束を破って之長を殺害しました。
細川澄元は伊丹で入京を待っていましたが、三好之長の敗死を聞き、播磨を経て阿波へ帰り、その年のうちに死去しました。
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