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2007年2月21日 (水)

応仁の乱後の畿内(七)

陰暦 一月四日

 永正十七年(1520)の政変をまとめると、四国と摂津の軍勢を率いた細川澄元・三好之長を、細川高国が北陸・近江・丹波連合軍で追い払ったということができます。この段階でも京都というのは、畿内諸国を二分する勢力が、争奪し合う価値がある土地であったのでした。

 澄元と之長の死は高国を安心させ、高国は慢心します。そのため、種軍足利義稙と細川高国の間に対立が持ち上がりました。義稙はついに京都を出奔し、淡路に逃亡しました。あるいは高国による義稙廃位の動きがあったのかもしれません。細川高国は、播磨で赤松義村に保護されていた足利義晴を迎えて十二代将軍としました。

 義尚以降の将軍継承を復習すると、

義尚ー義稙ー義澄ー義稙(復位)ー義晴

 となります。義稙は三年後の大永三年(1523)に淡路で死去しました。

 キングメーカーとして得意の絶頂であった細川高国でしたが、後継者である子息の細川稙国を大永五年に失ったため、政権が不安定になります。細川尹賢(高国の従兄弟)・波多野稙通・香西元盛・柳本賢治兄弟の間で紛争が発生しました。「三好長慶」に詳しく描いていないのですが、推測するに、高国の後継者になることを狙った細川尹賢とそれに反対する高国被官の戦いでしょう。

 当然これは澄元・之長派の介入を招きました。両者は死去しましたので、澄元の子息の細川晴元と之長の孫の元長に代替わりしています。

 三好元長は足利義澄の子供の義維も擁していました。義晴と義維は兄弟です。公式には義晴が兄ですが、義維が兄である可能性もあるそうで、義維自身は自分の方が兄だと信じていました。義維の子供が十四代将軍の義栄です。

 将軍足利義晴・管領細川高国軍の主力は越前朝倉孝景の援軍で、この戦いは実質的には朝倉対三好の戦いでした。朝倉勢が長陣に耐えかねて越前へ撤退したため、義晴と高国は近江に逃亡しました。空になった京都に三好軍が入ります。高国は伊賀の仁木、伊勢の北畠(娘婿)、近江、越前、出雲、備前と流遇します。備前では浦上村宗の保護を受けました。この逃亡コースは十五代将軍足利義昭の流寓コースを思い起こさせますね。

 三好元長がしばらく京都の主として政権を執りますが、まだ世上が安定していませんでしたので足利義維は堺に留まっていました。ここでまたもや味方であるはずの三好の権勢を憎んだ細川晴元が柳本賢治を援助して京都周辺を寇掠させたため、不快に思った三好元長は京都を退避します。

 備前まで逃げていた高国の命令によって、柳本賢治は暗殺されました。ややこしい話ですが、要するに細川晴元が三好の力を借りて京都を奪還し、今度は細川晴元は三好が邪魔になったので柳本賢治を使って三好を追い出し、細川晴元政権の実力者となった柳本賢治を、細川晴元のライバルである細川高国が暗殺したのです。

 やはり細川家の道義は地に堕ちていたことには変わりがありません。

 柳本賢治を失った細川晴元は三好元長を呼び戻しました。細川氏の阿波の被官三好と赤松氏の備前の被官浦上氏の戦いです。このあたりになってくると、そろそろ細川の家督を巡る争いなのか、その下の被官が細川の家督争いを名目にして勢力争いをしているのか見分けが付かなくなってきます。

 浦上氏の被官からは宇喜多氏が出ています。

 天王寺で両細川の乱の最後の戦いが行われます。細川高国側は播磨の赤松勢と備前の浦上勢(一応赤松家臣)。しかし、浦上村宗に父の赤松義村を殺された赤松政村が浦上村宗を裏切ったために高国側が敗北。浦上村宗は討死、細川高国は自決、細川尹賢は殺されました。これを大物崩れ(だいもつ:場所は現在の尼崎市)とも言います。

 かくして享禄四年(1531)、25年にわたった両細川の乱は高国側の滅亡によって終結しました。以後の畿内の権力闘争は、実力者である三好にその他の勢力が挑戦するのが基調となります。三好に挑戦する最大の勢力こそが、戦国後期に猛威を振るったあの勢力でした。

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