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2007年2月 8日 (木)

「応仁の乱後の畿内(二)」

陰暦 十二月廿一日 【針供養】

 まず文明九年(1477)に京都での戦闘が終了。その後も畠山氏は近畿で家督争いを続けます。将軍になれなかった足利義視は土岐成頼に保護されて美濃に落ち延びました。成頼は斎藤道三に国を追われた頼芸の祖父です。

 その後織田信長が上洛するまで南近江の六角氏が絶えず幕府に反抗します。これは近江に残る荘園というのは公家と幕府の財政にとって最後の砦であり、これを押領されてしまうと京都の生活が成り立たなくなるため、幕府としては絶対に六角氏による近江の領国化は防ぎたかったため、幕府と六角が激しく対立したからでしょう。

 文明十四年(1482)に幕府は山陰から段銭を徴収したり、翌年に前将軍足利義政が遣明船を送ったりしていますので、応仁の乱が終わって数年はまだ幕府の権威は残っていました。

 この頃近畿一円で土一揆が頻発します。そのクライマックスが山城國一揆と加賀國一向一揆です。山城國一揆によって京都から畠山勢が撤退、赤松政則 が山名を追い払って播磨を掌握、加賀國一向一揆が守護の富樫政親を自殺させるなどこの頃近畿の周辺で大きな動きがありました。更に将軍義尚が六角攻めの最 中に陣没。美濃から義視・義材父子が帰還し、義材が十代将軍となりました。

 山名と大内が去った後の幕府の実力者は、細川勝元の子供である細川政元でした。明応三年(1494)から死没する永正四年(1507)まで十三年 間管領に在任しました。細川家は応仁の乱後半は義尚側につきましたので、義材とは折り合いが悪く、政元は堀越公方の政知の息子の義澄を将軍にしようとしま す。

 少し振り返りますと、六代将軍義教と熾烈な争いを繰り広げた鎌倉公方足利持氏の子息の成氏が幕府に反抗したため、幕府は義政の弟の政知を鎌倉公方 として送り込みます。政知を助けたのが今川氏、その今川氏の謀将が伊勢新九郎(北条早雲)です。当時の関東は足利氏と上杉氏が四分五裂して内部争いをして いました。それを今川氏の力で押さえ込もうとしたのですが、ますます関東武士の反感を買い、政知は伊豆國だけしか支配できませんでした。

 政知が死んだ後、長男?の茶々丸が堀越公方を嗣ぎ、次男?の義澄は細川政元によって京都に戻されました。若年の茶々丸から伊豆を奪い取ったのが伊 勢新九郎です。茶々丸は暴虐だったということにされていますが、実際はどうだったのでしょう?今川氏が伊勢新九郎の独立に異議を唱えておらず、その後も今 川氏と後北条氏は友好関係を保っていますので、両者の間で何らかの合意がなされていたのでしょう。その頃京都でも同じく伊勢氏の伊勢貞陸が山城守護に就任 して山城國一揆を鎮圧しています。

 明応二年(1493)、細川政元は義材を廃し、義澄を将軍にしました。その後十数年間は幕府は政元の手に握られました。

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