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2007年2月 7日 (水)

「応仁の乱後の畿内(一)」

陰暦 十二月廿日

 学校で習う歴史では応仁の乱の次は武田信玄や織田信長まで飛んでしまいます。加賀の一向一揆が長享元年(1487)で京における応仁の乱終結から十年後にあたり、北条早雲が三浦氏を滅ぼして相模国を手中に収めたのが永正十三年(1516)でした。従って蓮如や伊勢新九郎(北条早雲)が生きた時代は応仁の乱の前後にまたがっていますけれども、彼等の活躍は次の時代の主役である戦国大名の発展との関わりで語られるのが普通です。室町幕府がどのように衰退したかの詳しい解説はあまりありません。

 ずっと応仁の乱後の歴史、特に畿内の有様を知りたいと思っていましたが、丁度吉川弘文館が「赤松円心・満祐」及び「三好長慶」を復刊してくれましたので、これをたよりにして応仁の乱が終わってから織田信長が上京するまでの畿内の歴史を辿ってみようと思います。

 応仁の乱は将軍家と畠山家の家督相続争いに、二大権力者である管領細川勝元と山名持豊(宗全)が巻き込まれて、幕府を二分する戦いとなったことは 周知の通りです。文明五年(1473)に勝元と持豊が病没して幕府内部の覇権争いの色彩は薄れ、各家の家督争いに限定されていきます。長享元年に西軍の雄 である大内正弘が幕府に帰降、畠山義就が河内に帰国することで京での戦乱は終結しました。

 各陣営の勢力範囲を眺めますと、山名氏が山陰、細川氏が四国と丹波、赤松氏が播磨・摂津、畠山氏が河内・大和・紀伊、六角氏と京極氏が近江、大内 氏が周防・長門を押さえていました。山陰を押さえる山名が畿内に侵入しようとするのを、丹波の細川と播磨の赤松が防ぐという構図が浮かび上がってきます。

 山名と大内というのは三代将軍義満の頃まで南朝方について室町幕府と対決していました。ですので、強い力を持っていた割には幕政では冷遇されていました。そのため両家はことあるごとに幕府に反抗しました。山名・大内・鎌倉公方の三者が室町幕府の三大野党といえます。

 山名持豊は嘉吉の乱の功績により、播磨と備前を赤松から奪って念願の瀬戸内進出を果たします。次に目指すは河内(摂津の一部は細川の分国守護)というわけで畠山氏の家督争いに介入するわけです。

 細川勝元は山名持豊に対抗するために、赤松氏の再興を援助します。播磨と備前は赤松党の蜂起が絶えず、山名氏の支配はなかなか徹底しませんでした。

 持豊は幕府の覇権を握るために軍を率いて上京する機会を窺っていました。幕府を押さえないことには、いつ細川勝元によって播磨や備前を取り上げら れるか分からなかったからです。そこに来たのが将軍家の継承争いで、義政実子の義尚を助けるという名分ができたために京都に大軍を入れることができるよう になりました。その後御霊合戦があり、山名の先制攻撃を受けてから細川勝元が四国・畿内の軍を上京させ、東西両軍の全面戦争となります。

 結局、赤松政則が播磨と備前の守護を回復したことにより、山名は補給が続かなくなったため持豊の死によって戦いからは手を引くことになり、その後 は水軍で周防・長門から補給ができた大内氏が西軍の主力となりましたが、大内内部でも家督争いが起きたのと、幕府の弱体化によって京都を確保する旨味が 減ったためにやはり撤退。最終的に本拠地が京都に近い細川が幕府を独占することになりましたが、その時には幕府の威令は畿内にしか及ばなくなっていまし た。

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コメント

山名の場合、尊氏支持で北朝についた後、観応の擾乱で尊氏の弟直義について、南朝を支持するにいたったのですよね。

最初から南朝側なら幕府成立後に強い勢力を持つわけには行かないでしょうし室町幕府の重鎮たる四職にはつけないでしょうから(^^ゞ

山名に大内に細川、さらに尼子に京極。山陰、山陽そして瀬戸内といった中四国地方の覇権争いも東海関東北信越の争いに負けずドラマチックですよね。

勃興する戦国大名と衰退する幕府。

一応の秩序は幕府と戦国大名の間にはあったのでしょうねぇ。

信長が最後の将軍を露骨に飼い殺しし、後放逐するにあたって一応の秩序が完全に抹消されてしまったのかな。

いやその前の義輝殺害で足利幕府は名実ともに終わっちゃったのかな。

三好氏、山名氏、大内氏の三国志を中心に大河ドラマを作っても面白いかも(^^ゞ

前半は駆け足で太平記後から嘉吉の乱あたりまで、最後はそれらが全て没落しはじめる義輝の最期。中盤は山名宗全で後半の主役は松永久秀(^^ゞ

松永と陶はキャラが被るかな。


そうですね、山名と大内は南朝と言うよりはむしろ「直義・直冬党」と言うべきかもしれません。観応の擾乱がなければ室町幕府は安定した政権になっていた可能性が高いですよね。

あるいは、高麗の滅亡に乗じて、太閤さんのように朝鮮半島に攻め上り、明と満洲で激突していた可能性もあります。

その場合、白村江の戦いの再現となった可能性が高そうです。

松浪庄九郎(斎藤道三)と松永久秀は、京都の同じ町内の出身ですからこの二人を主役にすれば面白いドラマになるかもしれません。戦国版「海と風と虹と」です。

でも山崎にいた松浪庄九郎は本当は道三の父でしょうから、久秀の一世代前になるので本当は同世代ってことはないんですが。

ところで、赤松の西播の守護代が小寺氏で、備前の守護代が浦上氏。両方とも赤松一族です。そしてその守護代の宿老がそれぞれ黒田氏と宇喜多氏です。

つまり黒田官兵衛と宇喜多直家というのは、同じ赤松家中の同輩なんですね。ですから黒田官兵衛が仲間に入ることによって、宇喜多直家をスムーズに調略することに成功したわけです。

播磨というのは、土豪の上に赤松一族が配置されているという態勢になっていまして、赤松党は赤松本家のために必死で戦うんだけれど、それ以外の土豪は案外クールに主君を変えます。

ですから嘉吉の乱でもほとんどの土豪は静観したので赤松本家は呆気なく滅亡。織田の三木城攻めでも徹底抗戦する赤松党と、織田方につく土豪に分かれました。

赤松氏は村上源氏といわれています。

「応仁の乱後の畿内(一)」を拝見させてもらいました。
面白く、うまくまとめていると思います。
特に山名・大内・関東公方を三大野党というのは巧いと思いました。

ただ、気になった記述もあります。

>山名と大内というのは三代将軍義満の頃まで南朝方について室町幕府と対決していました。

山名時氏や大内弘世が室町幕府に帰順したのは、2代将軍の足利義詮の時代です。

さすがは南北朝時代に一家言お持ちの輔住さんです。その部分だけは裏をとらずに記憶だけで描きましたが、やはりミスがありましたか。
年表で確認した所、山名時氏と大内弘世が幕府に帰参したのは正平十八年(1363)とありました。この時の将軍は義詮、管領は斯波義将です。
尊氏の尻拭いをやってのけた義詮の功績はもっと認められても良いかもしれませんね。
あと鎌倉公方の名前を間違えていましたね、基氏じゃなく持氏でした。

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