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2007年2月10日 (土)

「応仁の乱後の畿内(三)」

陰暦 十二月廿三日

 戦国時代の"下克上"の実態について考えてみようと思います。

 まず室町時代の守護というのは、基本的に任地には赴任しませんでした。京都に滞在することが義務づけられていました。関東の守護は鎌倉滞在を義務づけられていました。任地には守護代を任命して実際の統治を任せました。

 室町幕府の統治の手順は、「赤松円心・満祐」によると、例えば東寺から幕府に「播磨の荘園が豪族によって押領された」という訴えがあった場合、

(1)将軍から播磨守護の赤松氏に押領を止めさせるように命令を記し、将軍の花押を添えた「御教書」が出されます(実際に書くのは伊勢氏などの文官です、花押だけは将軍本人が記入します)。

(2)次に管領が御教書を受けて守護に押領を止めさせるよう命令する「管領施行状」を書いて守護に下げ渡します。

(3)御教書と施行状を受けた守護は、御教書の写しを作り、こっちは幕府に返還。そして御教書は後日の証拠のために訴訟者の東寺に返されたようです。そして施行状には、命令に従う旨を書き込み、花押を添えて守護代に下げ渡します。

(4)守護大名の実権が年寄衆(だいたい守護一族の有力者、実務に長けた僧侶や文官、現地の豪族の有力者)に握られるようになると、年寄衆が施行状に細目と花押を書き込んで守護代に渡すようになったようです。これを年寄奉書といいます。

(5)年寄奉書を受け取った守護代は、部下の目代(代官ともいう)に押領を止めるよう記した守護打渡状を作らせて、現地の豪族に渡すよう命令します。

(6)現地に最も詳しい目代は適切な処置を記した命令書を作ります、これを目代書下状といいます。

 さて荘園を現地で管理している人を雑掌や荘官といいます。目代というのはだいたい鎌倉時代の地頭と同じ職掌です。そして荘園の押領で訴えられるの が現地の豪族ですが、雑掌・目代・豪族は同じ階層の人間で、場合によって目代となって豪族に押領を止めさせる立場になったり、その目代が別の場所では荘園 を押領していたりします。織田信長の織田氏や松平氏や毛利氏というのはこの階層です。

 これに対して、尼子氏や陶氏というのは一つ上の守護代や年寄衆の階層に当たります。尼子氏は京極氏の末流です。陶氏も大内氏の一族です。鎌倉時代 から室町時代にかけて、守護や地頭に任命された御家人が、現地に分家を送って領地を支配させて、やがて地方に根付いたのがこの階層です。

 律令国家と異なり、武家というのは、官職ではなくて地縁血縁といったネットワークを使って、命令を実行したり、要望を吸い上げたりしていました。 いくら「俺は守護であるから命令を聞け」といった所で、現地に手足となって動いてくれる一族郎党がいないと威令は行われません。そこで、御家人の当主が守 護として京都や鎌倉に滞在し、将軍の命令を守護一族を通して現地まで届けるという態勢が出来上がったのです。

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