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2007年3月28日 (水)

応仁の乱後の畿内(九)

陰暦 二月九日

 天文十一年(1542)、細川高国の従兄弟の子である細川氏綱が高国の後継者を称して、細川晴元と三好長慶に対抗しました。細川氏綱のバックには畠山氏が付いています。前将軍足利義晴は氏綱に味方して、実力者である晴元と長慶を除こうとしました。足利義晴と将軍の義輝は北白川城に退居。慈照寺(銀閣寺)の裏手から比叡山にかけては、室町時代には城塞になっていました。室町将軍は京都で混乱が起きると、慈照寺から北白川に逃げ、更に危険が迫ると朽木に逃げるという行動を繰り返しています。

 三好長慶は一時期苦境に追いつめられますが、弟の三好義賢の活躍によって、天文十六年(1547)に氏綱・畠山勢を撃退します。

 その後、再び細川晴元と三好長慶の関係が悪化。細川晴元が三好長慶配下の武将を騙し討ちしたのがきっかけです。将軍義輝と細川晴元の岳父である六角定頼は晴元方に付きます。三好長慶は細川氏綱と結託しました。戦いはまたもや三好方の勝利。弟の十河一存や一族の三好長逸が活躍しています。将軍義輝は朽木に撤退しました。前将軍の義晴は逃亡中に死去します。京都は三好勢によって占領されました。

 天文廿年に、将軍義輝と三好長慶は和議を取り結びました。細川晴元は出家、細川氏綱が細川家家督となります。将軍を迎える使節の中に松永久秀の名前が見えます。

 和議は二年で破れて、将軍は再び朽木へ退居。幽居は五年に及びました。

 天文廿年頃の近畿の形勢は、淀川沿いを三好勢が押さえ、河内から紀伊にかけての山地に畠山勢、朽木(近江國西部)に将軍義輝、南近江に六角義賢(定頼の子息)、若狭の国に細川晴元と武田義統がいるという状態でした。六角義賢は細川晴元の義兄。武田義統は将軍義輝の妹婿です。北部の山地は反三好で固められていたことになります。

 とはいえ、義輝、晴元、六角には京都を攻める力はなく、三好長慶も朽木を攻めて将軍を滅ぼすような真似はしませんでした。そのため、京都は平穏に過ぎました。三好長慶は芥川城(高槻市)に居を構えて、京都に睨みを効かせました。京都では幕府の有力者である伊勢貞孝が長慶と協力して、京都市長のような役割を果たしていました。

 弘治四年(1558)、三好長慶は人質として預かっていた細川晴元の子息の聡明丸を元服させています。天文廿年の和議に従ってのことです。契約を守り、京都も平穏のうちに治める三好勢と、紛擾を起こして京都を奪還しようとする将軍・守護大名達という構図が見えます。下克上といっても、室町幕府の秩序を壊したというだけであって、政治家としてはどちらが好ましかったかというと、三好長慶の方に軍配を上げるべきではないかと私は思います。

 永禄元年(1558)十二月、ようやく将軍義輝と三好長慶は和睦して、将軍が京都へ帰還しました。永禄二年二月には、尾張國の織田信長が、将軍の帰京祝いという名目で上京しています。この時二十六歳。尾張をやっと平定し、美濃國に目を向けようかという矢先です。二年後には桶狭間の戦いを控えています。四月には越後國の長尾景虎も五千騎の兵を引き連れて上京しています。長尾景虎は「天皇と将軍が尊敬される日が来るまで京都から帰らない」と称して、半年間京都に滞在しましたが、甲斐の武田信玄が北上したので帰還しました。

 永禄三年には正親町院の即位式が行われました。

 近畿中央部を支配する三好長慶に権力は集まり、三好は河内と大和を支配下に収めます。播磨にも出兵して三木氏(赤松一族)と戦っています。細川氏と畠山氏は完全に三好に寄生する存在に成り下がりました。阿波には三好義賢、淡路には安宅冬康、讃岐には十河一存(全員長慶の弟)がしっかりと勢力を持ち、永禄年間の近畿地方は三好によって統一されたかの観がありました。

 しかし、近畿一円に勢力を築いた三好の時代も、呆気なく終わってしまいます。三好が滅んでできた権力の空白を埋めたのが織田信長でした。いよいよこのシリーズも最終章です。

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