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2007年3月30日 (金)

応仁の乱後の畿内(十)

陰暦 二月十二日 【薬師寺花会式】

 永禄年間の三好長慶の勢力範囲は、山城・大和・河内・和泉・讃岐・阿波の数国に及んでいました。それだけに、周囲の守護大名や国人からその勢威を憎まれていました。

 三好長慶は、将軍家を尊重していましたが、十三代将軍足利義輝にとっては家臣(細川家)の家臣である三好が京都の支配者になっていることが気に入らない。足利将軍が幕府の主導権を握っていたのは数十年しかありませんでしたが、それでも陪臣の風下に立つのはプライドが許さなかったのでしょう。

 三好家は之長から三代にわたって、阿波細川家を助けてきましたが、阿波細川家はそれに報いるどころか、三好家の伸長を憎んで妨害を続けていました。細川晴元の義兄弟である六角義賢も次は三好が近江に攻め込むはずと猜疑心にかられていました。

 畠山氏は、本拠地の河内を三好に奪われたことを恨んでいました。紀伊から河内の奪還を虎視眈々とうかがっていました。

 永禄四年(1561)、将軍義輝は内紛が続く畠山氏の片方へ味方することを三好長慶に命じました。つまり、紀伊を確保する畠山本流と三好が戦うようにし向けたのです。小説家が義輝を好意的に書くことが多いので誤解が広まっていますが、実際の義輝は義昭以上の陰謀家です。三好・松永が義輝を滅ぼしたのは、その陰謀に堪忍袋の緒が切れたからです。

 この戦いで三好勢はかろうじて勝利を収めますが、長慶の片腕とも言える三好義賢が戦死しました。十河一存は永禄三年に死んでいます。長慶は一年で、支えを二人も失ってしまいました。

 永禄五年になって、松永久秀の活躍によって、河内に戻っていた畠山高政の勢力は駆逐されます。三好義賢と十河一存の氏によって、三好家中で松永久秀が台頭しました。

 この年、三好と協力していたはずの伊勢貞孝ら奉行衆が三好に反旗を翻して、北山に立て籠もりました。もちろん義輝の内意です。もちろんすぐに負けました、これで幕府の最後の残滓とも言えた奉行衆の勢力も消滅します。将軍のために働いてくれる人間はもう誰もいなくなりました。

 更に、朝廷も三好に反感を持ち、各地の武将に朝廷を援助するために上京(要するに三好を討伐せよという意味)を求める女房奉書を出しました。六年後の永禄十一年の織田信長の上洛は、名目上はこれに応えた形になっています。

 三好は必ずしも朝廷や幕府の邪魔になるようなことをしたわけではありませんが、朝廷や幕府としては、源平の戦いにおける後白河院のように、武士を操ることで勢力を強めることができると高をくくっていたのだと考えられます。

 永禄六年八月、長慶の跡継ぎである義興が死亡しました。翌七年九月、温厚な性格でで三好家をとりまとめていた安宅冬康を長慶は誅殺してしまいます。この頃になると、相次ぐ肉親の死で三好長慶は判断力が弱まっていたのではないか、という主張をする人もいます。松永久秀の陰謀である、と言う説もあります。

 数年の間に、有力な武将が死に絶えてしまいました。三好勢は、室町時代の国人らしく、一族の有力者を各地に配置し、戦闘では指揮官にすることで国をまとめていました。この方式は、勢いに乗った時には一気に勢力を広げることができますが、惣領と武将の間の個人的な血縁関係に頼っていますので、総領が交代したり、武将が死んでしまったりすると、呆気なく崩壊する危険を孕んでいます。永禄年間の三好家には、この弱点が最も不幸な形で顕在化しました。

 安宅冬康の謀殺の二ヶ月後の永禄七年七月に三好長慶も病死します。養子の孫六郎重存(十河一存の遺児であり、後に義継と改名)が家督を継承しました。

 永禄六年には細川晴元と氏綱がともに死去しており、ここに細川家の本流は断絶しました。この後に出てくる細川藤孝というのは細川家の末流から公家の三淵家へ養子に入った三淵晴員の子供であり、和泉半国守護の細川元常(晴員の兄)の養子となっただけで、細川家の継承争いの外にいました。細川家の遺産をほとんど継承しておらず、細川藤孝はこの後織田信長の武将として、息子の忠興と一緒に自分の腕一本でのし上がっていきます。

 永禄七年(1564)の三月に、織田信長と浅井長政が同盟を結びました。将軍義輝は上杉・武田・北条の和を図っています。翌年永禄八年に三好三人衆と松永久秀は、将軍を暗殺。阿波でずっと匿っていた平島公方足利義維の子供の足利義栄を十四代将軍に立てました。

 三好三人衆とは、三好長慶の父親元長の従兄弟にあたる三好長逸、三好政康、それに有力家臣の岩成友通らです。長慶とその兄弟の死によって、三好元長家から権力が傍流に移ったのです。

 義輝の弟、足利義昭と、細川家の生き残りの細川藤孝は、仇の三好を滅ぼすために、北国街道を抜けて越前に落ち延び、朝倉が頼りにならないと見るや、美濃を奪取したばかりの織田信長を頼りました。数十年にわたる紛争によって、細川、畠山といった室町的権威が消滅し、三好勢も内紛で疲弊した畿内に織田信長は攻め入りました。

 三好勢の数十年間の試みは織田信長にとって絶好の教訓となったのではないか、と私は思います。

 守護も国人も滅んだ畿内で、最後に残った勢力は山科本願寺を滅ぼされて以来三十年間、活動を自重していた一向一揆だけでした。ここに織田信長と一向一揆の、畿内と・・・いうことはつまり日本の覇権をかけた戦いの火蓋が切って落とされるのです。

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