応仁の乱後の畿内(八)
陰暦 二月二日
三好元長が細川高国を滅ぼしたあとも、三好元長と細川晴元の対立は収まるどころかむしろ先鋭化していきました。両者の被官同士の合戦が続きます。享禄五年(1532)三月、劣勢に立った細川晴元は本願寺光教証如に助けを求めました。戦国武将が手を焼いた一向宗の総本山です。
浄土真宗と法華宗は、京都の町で勢力を争って、何度も合戦に及んでいました。三好は法華宗の大檀那です。証如は、先代の本願寺光兼実如の「大名の争いに介入するな」という遺言を破って、細川方に立って三好を攻めました。形勢は一気に逆転、三好元長は堺の南庄の法華宗の顕本寺で討ち死にします。嫡子の千熊丸(三好長慶)は阿波に落ち延びました。同じく摂津まで進出していた阿波公方の足利義維も淡路に退却しました。
半年後、一向宗の強大化を恐れた細川晴元は、改元あって天文元年(1532)八月に、今度は比叡山と法華宗の力を借りて山科本願寺を焼き討ちしました。三好を倒すために一向宗の力を借りておきながら、掌を返すように対抗勢力の法華宗の力を借りたのです。これでは幕府の信義は完全に地に堕ちたといって良いでしょう。この仕打ちに憤った一向宗は、細川晴元を攻めて淡路に追い払いました。
細川晴元に従って山科を攻めた法華宗寺院の一つに本能寺の名前が見えます。
山階の本拠地を焼き討ちされたため、以降の一向宗は摂津の石山本願寺を本拠地とするようになります。この後しばらく、畿内の武将は一向宗と法華宗の力を借りて、京・堺の攻略戦を繰り返しました。本願寺証如は天文二年に細川晴元と和睦しましたが、一向一揆は本願寺の統制には従わないで、戦闘を続けました。
この頃細川と三好の間を行ったり来たりする木沢長政という武将が出てきます。本拠地は大和国生駒の信貴城です。信貴城と言えば後年に松永久秀が本拠地とする城です。そろそろ聞き覚えがある名前や地名がちらほらと登場し始めます。
今度は法華宗の強大化を恐れた細川晴元・比叡山・興福寺が手を組んで、天文五年(1536)、法華宗の根拠地である下京を焼き討ちしました。戦国時代の比叡山は御輿を担いで朝廷を脅すなんて言うヤワ?なものではなくて、自分の権益を維持するためには、京の町を焼き払うことも辞さない存在でした。これでは織田信長によって滅ぼされても文句は言えません。
天文五年十一月までに三好長慶と細川晴元は和解しました。この時に細川晴元は織田信秀から送られた鷹を三好長慶に渡しています。
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» 無双Orochiのアクションシーンは最高だろ��� [とび]
やっぱり予約してしまった。 無双Orochi。待ててない待てない。早く出して。オイラが好きだった三国無双と戦国無双が合体しちゃったんでしょ。こりゃヤバイよ。こんなコラボはないでしょ。いや、男だったら無双Orochiをやらなきゃ駄目でしょ。もともとはオ... [続きを読む]
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