待賢門院璋子の生涯
陰暦 四月十一日
kitunoさんに薦められて「待賢門院璋子の生涯」(たいけんもんいんたまこのしょうがい)(角田文衛著 朝日選書)を読みました。
待賢門院は鳥羽院の中宮(お后)。康和三年(1101)生まれ、久安元年(1145)没。藤原家閑院流中興の祖である藤原公実と正妻光子の末娘です。同母兄の通季は西園寺流の祖。実能は徳大寺流の祖。異母兄の実行は三条流の祖という華麗な家柄に生まれました。
公式には、白河法皇の養女ととして比類なき権力者の法皇に愛されて育ち、鳥羽院との間に四男三女に恵まれ、長男の顕仁親王と雅仁親王が践祚され、それぞれ崇徳院と後白河院となりました。末子の本仁親王は仁和寺第五世門跡として名高い覚性法親王。三女は斎院で後白河院の准母に立てられた上西門院です。
しかしご存知の方も多いように、長男の顕仁親王は白河法皇と待賢門院が密通して生まれた子供です。著者は日記や公式記録から待賢門院の月経周期を推理し、それと白河法皇と待賢門院の逢い引きの記録を付き合わせ、親王が二人の間の子供であることを証明しています。このあたりは圧巻です。
著者は待賢門院にかなり魅入られていて、彼女に関するありとあらゆる記録を猟捕してこの魅力的な麗人の生涯を描き出しました。待賢門院の艶やかな性遍歴は一歩間違うと爛れた腐臭を放ちそうなのに、下品さを感じさせないところがこの著者の文章力であり、なにより待賢門院という女性の魅力がなせるわざなのでしょう。道徳を踏みにじってなほ生き方が崩れずに人を引きつけずに已まない、男達が作った決まり事を超越した存在、そういう女性がいるのです。
待賢門院にも人並みの権勢欲はありましたが、それは政治を動かすためではなく、あくまでも愛する二人の男生と一緒にいたいという願望から生じていました。女性としての幸せを望み、それを満喫し、本人はそれ以上何も望まなかったけれど、それに男達が振り回される。これぞ真の「悪女」と申せましょう。
待賢門院と比べたら、政治のためにこせこせした努力を怠らなかった北条政子や日野富子などは悪女としてずっとずっと小者です。
朝廷の凋落と武家の興隆の発端となった保元の乱は待賢門院の抗しがたい魅力に原因がありました。愛する息子達が心ならずも戦わなければならなかった乱を見ずに亡くなったのはむしろ幸せだったと言えるでしょう。
私にとって意外だったのは、崇徳上皇と雅仁親王が決して反目し合っていたわけではなかったことでした。雅仁親王は登極する前日まで、崇徳上皇の館に居候していました。二人は何度も母親の館で顔を合わせています。二人の間には恨みの気持ちはなかったことが見て取れます。
鳥羽院が崇徳院に底意を持っていなかったという著者の推理はやや甘いと私は思いました。自分の息子の體仁親王を即位させた(近衛院)ことからも、鳥羽上皇は崇徳院の系統に皇位を嗣がせるつもりがなかったのは明瞭であると思います。その底意に稀代の策略家である藤原忠通がつけ込む隙があったのでしょう。
諸悪の根元として忠通を扱っているのは、息子の慈円が書き記した「愚管抄」に拠っているのだと思いますが、やや忠通を買いかぶりすぎなきらいがあります。
院政期は日記史料が比較的多く残っていることもあり、「待賢門院の生涯」が描き出す公家の日常は活き活きとしています。後白河上皇、上西門院、覚性法親王といった続く時代の役者達が生まれ育った世界をまざまざと描き出してくれます。武家とやり合って朝廷を守った彼等の間を取り持っていたのは、当時の公家としては珍しく濃密な親子関係で結ばれていた鳥羽院と待賢門院の一家の家族愛(この二人の間には二人障碍児が生まれていますが、障碍を持った息子と二人で添い寝をしたりしています、これは未曾有のことです)だったことがわかります。
千年前も、歴史の舞台を動かしていたのは人に他ならなかったのでしょう。
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