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2007年5月31日 (木)

管子ー版法第一(その二)

陰暦 四月十五日

 禍ひ昌んにしてさとらざれば、民乃ち自ら図る。法を正しくし度を直くし、罪滅して赦さず。殺戮必ず信なれば、民畏れて懼る(おそる)。武威既に明らかな れば、令は再行せず。怠倦を頓卒して以てこれを辱め、有過を罰罪して以て之を懲らしめ、犯禁を殺戮して以て之を振す(おどす)。植固くして動かざれば、倚 邪乃ち恐る。倚革まり(あらたまり)邪化すれば、令往き民移る。

(訳)禍が増大しても、君主がそれに気がつかなければ、人民はそこで自分勝手な生き方を工夫するようになるのである。法律を正しく施行し、制度をきちんと整え、犯罪者はこれに照らして処罰して、容赦してはならない。死刑が犯罪者に対して間違いなく行われれば、人民は犯罪を恐れて遠ざかるようになる。武力による威光がこのようにして明らかになれば、命令を再発する必要がなくなる。仕事を怠けおこたる者を苦しめ懲らして辱め、罪を犯した者を処罰して懲戒し、法を犯した者を死刑に処して人々を恐れおののかせるべきである。君主の心が堅固で動揺しなければ、邪悪な者達は恐れるようになる。そして邪悪な者が心を入れ替えれば命令は行き届き民衆は善へと移る。

 民の徳を合するに法り(のっとり)、地の親しみなきに象る(かたどる)。日月に参し、四時に伍す。衆を悦ばすは愛施に在り、衆を斎ふる(ととのふる)は私を廃するに在り。遠きを招くは近きを修るにあり、禍ひを閉づるは怨みを除くに在り。長きを備ふるは賢を任ずるに在り、高きに安んずるには利を同じくするに在り。

(訳)君主は、天があまねく万物に恩徳を施すのを手本とし、地が差別なく万物を養うのを見習うべきである。太陽と月との運行と行動をともにし、春夏秋冬の移り変わりに合わせて行動するべきである。民衆を喜ばせる手段は愛と施しにあり、民衆を統一する手段は私心を捨て去ることにある。遠国の人民を招き寄せる手段は、身近な人民たちの行いを正しくさせることにあり、国の禍いを防ぐ手段は、人民の怨みを取り除くことにある。国家を長く維持する備えは、すぐれた人物を任用することにあり、高貴な地位に安定しているための手段は、下々の人民と利益を共有することにある。

 これが版法編の第一です。たいへんに短く、「管子」のエッセンスをまとめた編であることが窺えます。

 後半やや厳しいことを言っているようにも感じますが、法律を正しく施行し、依怙贔屓などをしてはならないという極当然のことを言っているに過ぎません。苛法はいけませんが、ちゃんとした法があるのに、徒に違反者を罰しないのもまた国家が乱れる本です。

 私心を捨てなければならない、人民を動かすためには、それ相応の報酬を与えなければならない。まことに現実的です。そして日本人の考え方にも合っています。儒教のように血族絶対でもなく、法家のような条文主義で人間を忘れてはいない、老荘のように虚無に陥ることもない。管子と荀子(どちらも斉の学派です)はバランスがよく、現代人に馴染みやすいのです。

 また、先に紹介したように優れて経済的な記述まで含んでおり、これを支那人は古代から読んでいましたし、十七条の憲法には管子の影響が窺えるそうですから、聖徳太子の時代には既に日本人も読んでいました。昔の人間を決して軽んじてはならないことが分かります。少なくとも政治経済に関しては、我々が考えるようなことは全て二千年前の人の頭の中にも入っていたのです。

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