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2007年10月 8日 (月)

東洋の火薬庫(一)

陰暦 八月廿八日 【亥の子餅】

 三連休ですが、秋は鬱な季節なので家でのんびりして鋭気を養っています。こういう時は何も考えず、頑張らず、雲が通りすぎるのを待つが肝要。でないと仕事にも差し支えますからね。

 「博多湾頭攻防絵巻 元寇物語」田中政好喜著 青雲書房 という本を古本屋で見つけました。福岡の郷土史家が元寇についてまとめた本。

 "物語"と書いてあるくらいですので、想像で補っている部分もいくらかあるのですが(朝廷や鎌倉首脳の寄り合いの内容など)、当時を生きた人間の視点に立って記述してくれているのが有り難い。大河ドラマの「時宗」のように、時輔が開国を夢見ていたとか、時宗が敵の大将の世租(フビライ)に親近感を抱いていたなどという妄想が混じっていないという意味です。

 元との交渉では、日本側は訳も分からず使節を追い返したり斬り捨てたりしたというように教わってきましたが、そうではないようです。太宰府と京と鎌倉の間を早馬が何度も往復しており、日本側の当事者は緊密な連携を取って対外政策を決めていた跡があります。そのように国論を統一した上での強攻策でした。

 元の使節の扱いも、徐々に厳しくしていて、最後には「今度来たら斬り捨てるので、もう二度と来ないように」と最後通牒を出しています。日本側も元側も外交的手立ては全て尽くしてから戦争に訴えています。

 大国で残虐なモンゴルに強攻策で臨んだのは、非常識なようですが、ホラズム王朝(アフガニスタン)もルース諸侯(ロシア)もアッパース朝(イラク)も、日本同様に強攻策で通しています。モンゴルのような覇権国家と国交を結ぶと言うことは臣下になるということで、そのようなことをすれば瞬間的に大名の連合体とも言うべき中世の国家というのは瓦解しますので、国家を維持しようとしたら戦うしかないのですね。

 国交を結べば権威が崩壊して、モンゴルに頼らざるを得なくなる。高麗がそれです。高麗はモンゴルの北走と同時に崩壊しました。権威を維持しようとすれば絶望的抗戦を続けるしかない。ホラズムやルーシだって戦えば負けることくらい分かっていたわけです。それでも戦わざるを得ませんでした。ですので当時の日本の選択は国際的に見ても外れてはいませんでした。

 近代の日本人は大東亜戦争のことを元寇に投影しすぎなんだと思います。

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