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2007年11月28日 (水)

上杉鷹山はえらい

陰暦 十月十九日

 人物叢書の「上杉鷹山」を読んでいます。立派な人だとは聞いていましたけれども、そのために反発を感じて今まで伝記は読まないできました。この前米沢へ行って、自筆の書などを見て、興味がわきました。そこで人物叢書となったわけですが、何が感動したかというと・・・

 上杉治憲(鷹山)は 日向高鍋藩主秋月種実の次男として生まれました。秋月種実の妻、則ち治憲の母親である春姫は筑前秋月藩主黒田長治の娘であり、長治の妻である豊姫が米沢藩主上杉綱憲の娘でした。

 則ち治憲は、上杉綱憲ー豊姫ー春姫ー治憲、と女系で上杉家の血を受け継いでいました。ちなみに綱憲の父はあの吉良義央であり、治憲は吉良義央の四代の孫ということになります。

 治憲の養父上杉種定には息子がいましたが、治憲が優秀の誉れ高かったことと、健康で適齢期の後継者を確保する必要性から、治憲を養子としました。米沢藩は三代綱勝が世継ぎを指名しないまま急死したことにより領地を半減される憂き目に遭っていたので、転ばぬ先の杖であったのでしょう。

 種定には幸姫という正室に生ませた娘がいました。治憲は幸姫の婿となります。上杉博物館では、鷹山はお豊という上杉家の遠縁の女性との間に子供をもうけ(ただし早世している)、お豊の協力も得て国を治めたと説明がありました。正室の間には子供がいませんでした。私は浅はかにも、幸姫がよっぽど不細工か嫌な女性で、鷹山もいやいや結婚生活を送っていたのかなとその時は思いました

 しかし、人物叢書によると、幸姫は身心の発育が異常で、二十を超えても十歳くらいの体つきと知能であったそうです。その幸姫とままごと遊びをするのが江戸の藩邸における鷹山の夫婦生活であったそうです。

 これだけでも大変な驚きですが、何と鷹山は幸姫が三十歳で亡くなるまで江戸には側室をおかなかったとありました。お豊は米沢での側室でした。種定は娘の発育が異常であったことを娘が死ぬまで知らなかったそうです。側室をおかなかったのは養父の手前もあったのかもしれませんが、養子に入ってから十数年、江戸には側室をおかないで幸姫の相手をしていたとはなかなかできることではありません。

 米沢で見た鷹山の書は、細やかで優しく、彼の心をあらわしていたのだなと今になって思いました。

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