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2007年12月29日 (土)

シチリアの晩祷(四)

陰暦 十一月廿日

 蜂起の計画は、アラゴンとビザンツの間では、ビザンツがシチリアの反アンジュー派に軍資金を提供、シャルル王の出港の前後に蜂起を起こしてアンジュー軍 を混乱に陥れるというものであったといわれています(何せ陰謀なので直接の計画書とかは残されていません、ミカエル皇帝の自伝にそれを匂わす記述がある程 度、あとはシチリア島の伝承にしか残っていない)。

 アラゴンはビザンツからの金を使い、反アンジュー派でビザンツとも良好な関係を持つジェノーヴァ市の海軍の支援も得て、混乱に乗じてシチリア島に攻め込む手はずになっていました。

 ただしシチリアの島民の方は「我々はローマ教皇の直臣である」という誇りが強く、アンジュー家を追い出しても、アラゴンの支配下に入るつもりはありませんでした。

 1282年2月29日の復活祭の日、シチリアのパレルモ市で、フランス兵が新婚夫婦を陵辱したことをきっかけに、暴動が発生しました。この蜂起によって二千人いたとされるパレルモのフランス人は軍民ともに一晩でほぼ全滅しました。フランス人の遺体が散らばる市街に晩祷を知らせる鐘が鳴り響いたため、この事件は「シチリアの晩祷(晩鐘)」という名で呼ばれることになります。

 最初のパレルモの蜂起は自然発生的なものだったそうです(住民とフランス兵のこぜりあいはこれ以前にも頻発していた)。しかし、煽動者がいたのと、どこからともなく武器が補給されたため、パレルモ市の蜂起は十日あまりでシチリア全島に飛び火しました。フランス人が助かった町は二つしかありませんでした。シチリア島民はローマ法王の宗主権の下で自治を行いたいと表明しました。

 十日でアンジュー家の支配が及んでいるのはメッシーナ市のみになってしまいます。メッシーナはアンジュー家支配の中心地で強力な正規軍が駐屯、沖合にはコンスタンティノープル遠征に参加する予定の艦隊が停泊していました。4月28日にはメッシーナでも反乱が発生し、フランス軍は砦に籠城、艦隊は焼き払われてしまいます。

 アラゴン王ペドロ三世は蜂起をシャルルの出航後に予定していたので、早い蜂起に驚きましたが、遠征先のチュニスから踵を返してシチリア島に進駐しました。当然、シャルル王はコンスタンティノープル遠征中止を余儀なくされて、シチリア奪還に急行します。

 アラゴン軍の方は抵抗を受けずに上陸できたのに対し、アンジュー軍は何度も水際でシチリア反乱軍に撃退され、アラゴン海軍の名将ルッジェーロに悩まされ、やっとの事で上陸を果たします。

 時のローマ法王はフランス人であったためにアンジュー家支配から抜け出したいというシチリア島民の申し出を断り、アラゴン王とシチリア全島の破門で応じました。ここでシチリア島民はやむを得ずアラゴンの支配下に入ることに同意します。島全体が敵という状況では衆寡敵せず、大規模な会戦をすることなしにシャルルは撤退し、シチリア島はアラゴンの領土となりました。

 絶頂期から奈落の底に落とされたシャルルの晩年は、跡継ぎがアラゴンに捕虜にされるなど、冴えないものとなり、失意のうちに亡くなりました。

 二十年後の1302年、アラゴン・シチリアとアンジュー家(南イタリアは保持していました)・ローマ法王は和解を果たし、シチリアは正式にアラゴン王家の領土として認められました。アンジュー家はシチリアは失いましたが、結婚政策の成功によってハンガリー王位が転がり込んできていたため、シチリア放棄を受け入れることができました。

 ハンガリーはアンジュー朝の下で最盛期を迎えます。百年後に南イタリアのアンジュー家は断絶して南イタリアもアラゴン王家のものとなりました。これが両シチリア王国です。

 結局シチリアの晩祷事件で一番損をしたのはローマ教会と言うことになりました。シチリア島民の真摯な申し出を峻拒したために、みすみすシチリア島という金城湯池を失うことになりました。シャルル王の選挙介入によってフランス人教皇が続いたために、イタリア人のローマ法王に対する忠誠心は下落し、実力も権威も墜ちてしまいました。

 この権威失墜が1303年のフランス王フィリップ四世による法王ボニファティウス八世包囲(アナーニ事件)へとつながります。フランスと南イタリアを失ったカトリック教会は財政的にますますドイツに頼ることになり、16世紀の宗教改革の遠因となりました。

 圧政に対して反抗したシチリア人にとっても、実益はあまりありませんでした。アラゴン王家はアンジュー家ほどは厳しい支配を敷かなかったものの、外国人から指図される状況は十九世紀まで続きます。数千年にわたって外国人支配への面従腹背を強いられたシチリアでは血縁と地縁が絡み合った秘密結社が発達しました。これがマフィアです。マフィアには数日でアンジュー家の支配をひっくり返した実績があるわけで(マフィアの伝説上の語源もシチリアの晩祷事件に寄っている)生半可な集団ではないことが分かります。

 なかなか複雑な事件で、高校の世界史では取り扱うのは難しいですが、シチリアの晩祷事件は中世西洋史の様々な事柄が絡まり合う結節点であり、その後に与えた影響も大きかったのです。

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