シチリアの晩祷(二)
陰暦 十一月十八日
アルタヴィラ家の栄華は長くは続きませんでした。グリエルモ二世は子供を残さなかったため、シチリア王位は従兄弟の系統へ移りますが、これも三代で途絶 えてしまいます。ここでルッジェーロの系統の男系は途絶えてしまいました。そこで、ルッジェーロ二世の娘のコンスタンツァに王位継承権が移ります。善王グリエ ルモ二世の叔母です。
コンスタンツァの夫は神聖ローマ皇帝ハインリヒ六世でした。この当時神聖ローマ皇帝に就いていたのはホーエンシュタウフェン家です。同家のフリードリヒがカノッサの屈辱のハインリヒ四世の娘婿になったところから運が開けた貴族です。
ハインリヒ六世は若くして亡くなったため、コンスタンツァは世子のフリードリヒとともにシチリアに里帰りしました。当時の欧州の貴族にも日本の貴族の妻問婚に似た習慣があって、子供は母親の実家で育てられることが多かったのでした。子供が長じるに及び、母親の一族が王子の藩屏になるという仕組みです。
中世の王権というのは不安定で、力関係によって、あちらこちらの家に移動しましたので、王様としても自分の王位を守るためには、強力な貴族の娘と結婚して、子供を守ってもらう必要があったわけです。けれども外戚の力が強くなりますので痛し痒しでした。
フリードリヒ二世は父の急死によって混乱したイタリアとドイツをシチリアから再征服しなければなりませんでしたが、シチリアの富を背景にして、ホーエンシュタウフェン朝の最盛期を築きました。宗教的に寛容な当時のシチリアで育ったため、ラテン語、ギリシャ語、アラビア語など数カ国語を操り、数学を解し、宮臣は有能なアラビア人やユダヤ人、近衛兵はムール人(モロッコ〜アルジェリアあたりの遊牧民)という大変に国際的な殿様でした。アイユーブ朝のサラディンと文通までしていました。
その当時の神聖ローマ皇帝はイタリアの支配を巡ってローマ法王と対立していました。本来シチリア王国は、カトリック教会がビザンツを撃退し、北から圧力をかけてくる神聖ローマ皇帝に対する後ろ盾にするためにノルマン人をバックアップして設立した国であったはずでした。しかしホーエンシュタウフェン家がシチリア(及び南イタリア)を手中にしてしまったために、ローマは北と南から挟まれる格好になってしまいます。更にフリードリヒ二世のコスモポリタン的性向がカトリック教会の神経を逆撫でするのでした。
これ以降、ローマ法王はホーンエンシュタウフェン朝を打倒するために動きます。ハインリヒはその死に及んで、教皇に息子の保護を頼んだのですが、それを十分には守りませんでした。ハインリヒの死後、ホーエンシュタウフェン家は南北に分裂してしまいます。
バイエルンを本拠にしたハインリヒの嫡孫であるコンラーディンと、ハインリヒの庶出子であり自力で南イタリアを切り従えたマンフレーディです。
コンラーディンはまだ幼かったので、神聖ローマ皇帝もシチリア王も継承できませんでした。マンフレーディは庶出子ですので、王位継承権がありません。ローマ法王はマンフレーディをシチリア王位僭称者であるとして、別の王家にシチリア王位を移そうとします。候補者はイングランド王国プランタジネット朝のリチャード(ジョン欠地王の息子で、ヘンリー三世の弟)と、フランス王国カペー朝のシャルル(聖王ルイ九世の弟)でした。
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