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2007年12月28日 (金)

シチリアの晩祷(三)

陰暦 十一月十九日 【納めの不動】

 最初はイングランドのリチャードの方が優勢でした。特に兄のヘンリー三世が乗り気であったのでしたが、貴族達が「成算が低い」として反対、王妹の婿シモン・ド・ モンフォールを中心とした反乱にまで拡大してしまいます。内乱によってボロボロになったプランタジネット家は候補から外れました。

 次いで、カペー家に教皇の目は注がれます。当時のフランスでは名君ルイ九世が現れ、中央集権を固め、十字軍を主導するなど(負けましたが)大変な名声を手にしていました。ルイ九世自身はマンフレーディと事を構えるのには乗り気ではありませんでしたが、シャルルがシチリア王になることは黙認しました。

 シャルルは父からアンジューを継承し、妻のベアトリスがプロヴァンス伯爵領を継承していたため裕福で、自分の力でイタリア遠征軍を組織することができました。1265年にシャルルはイタリアに進出します。翌1266年、ペネヴェンとの戦いでマンフレーディを戦死させ、1268年にタリアコッツォの戦いでコンラーディンを捕らえて斬殺します。欧州の陸戦ではフランス騎士は無敵でした。

 数年でイタリア半島部とシチリアを制圧したシャルル王は、フランス張りの中央集権制を敷きました。そのため、不正は減り、国庫は充ちたのですが、領民の反感を買ってしまいました。更にシャルルは官吏をフランス人に限ったため、シチリアと南イタリアではフランス人は侵略者として大層恨まれてしまいます。

 不正が減ったと言っても、これまでシチリアの豪族が懐に入れていた税金をアンジュー家が残らず吸い上げられるようになっただけですので、収税が厳格になっただけで領民にとっては迷惑でしかなかったわけです。

 イタリアを手にしたシャルル王は、結婚政策や外交を駆使して、アドリア海やエーゲ海に領土を広げようとします。20年前に第四次十字軍が組織され、これは結局ヴェネチアの思惑にのせられて同じキリスト教徒であるはずのビザンツ帝国を攻め滅ぼしてしまいました。コンスタンティノープルには、フランス人の騎士が"ラテン皇帝"として鎮座していましたが、さすがにギリシャ人からの評判が悪く、ビザンツの残党に追われて十年でラテン帝国は崩壊しました。

 結婚政策によってラテン帝国の継承権を手にしたシャルルは、コンスタンティノープル遠征を計画します。当時の再興ビザンツ帝国はトラキアと小アジア沿岸部しか持たない弱小領主でした。けれども金鉱を持っていたので金だけはありました。ビザンツ皇帝のミカエルはシャルルの遠征を阻止するために動きます。

 同じ頃、ローマ法王からシチリアの継承権を無視されて苦虫を潰している人物がいました。アラゴン王(スペインの地中海沿岸部)のペドロ三世です。ペドロの妻はシチリア王マンフレーディの娘でした。ローマ法王がマンフレーディの継承権を認めなかったためにペドロも候補者から外されたのですが、ペドロはそうは思いませんでした。

 ペドロは、家族を殺されてアンジュー家に怨みを抱くシチリア人のジョヴァンニ・ダ・プロチダを宰相に任命します。陰謀の真相は闇に包まれていますが、アンジュー家(シャルル王)の支配を嫌うシチリアの豪族(もしくは秘密結社)と、シチリア王位を狙うアラゴン王ペドロ三世と、シャルル王の遠征を阻止したいビザンツ皇帝ミカエルは、ジョヴァンニを通じて結びついたと言われています。

 シャルルの絶頂期に、足下のシチリアではアンジュー家に対する蜂起の陰謀が練られていたのでした。

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