シチリアの晩祷(五)
陰暦 十一月廿一日
最後に、シチリアの晩祷事件に出てくる脇役の紹介をします。歴史オタクにとっては「えっ、こんなところにあの人が?」と言いたくなる人物が沢山います。
シモン・ド・モンフォール(二世)
イングランド王位を狙ったシモン・ド・モンフォールの息子は、アンジュー家のシャルルの家臣となって働きました。アンジュー軍の猛将として高名をはせます。しかし、父親の敵討ちのために、イングランドのエドモンド(シチリア王候補だったリチャードの子息)を教会内で騙し討ちしたために、シャルルは泣く泣くシモン・ド・モンフォールを放逐さざるをえませんでした。シャルルはそれ以前にも、当時の慣習に反して捕虜にしたホーエンシュタウフェン家のコンラーディンを処刑しており、この二つの事件はシャルルの評判を落としてしまいます。
ドイツ王ルドルフ
ホーエンシュタウフェン朝の断絶によって、ドイツ王(神聖ローマ皇帝)は空位になってしまいます。ボヘミア王(今のチェコ)が最有力候補でしたが、ドイツ人ではなかったために他の選帝公が反対。すったもんだの挙げ句、ホーエンシュタウフェン家の忠臣、ハプスブルグのルドルフが暫定的にドイツ王に選出されました。ハプスブルグ家の祖です。ルドルフは誠実な君主として有名で「彼なら真面目だし、領土も小さいので、そう無茶なこともできないだろう」という思惑が選帝公達にあったからでした。
ルドルフは、ドイツの諸侯をうまくまとめ、ローマ教会とも比較的に良好な関係を保ちます。対立候補のボヘミア王を倒すことによって、ハプスブルグ家の封地を増やしました。ドイツ王位は彼一代でしたが、これが二百年後のハプスブルグ家の雄飛につながります。
ランカスター伯爵のエドモンド
イングランド王、ヘンリー三世の息子。シモン・ド・モンフォールに殺されたエドモンドとは別人です。リチャードが神聖ローマ皇帝選挙に挑戦するためにシチリア王位継承権を放棄したために、シチリア王の候補者に上がります。けれども、ヘンリー三世が無計画であったためにエドモンドを大将にしたシチリア遠征は実現しませんでした。その後、エドモンドは実力者のグロスター伯の婿となり、ランカスター伯爵になり、イングランド最大の貴族となります。曾孫のブラーンシュ(女)がエドワード三世の息子のジョン・オブ・ゴーントを入り婿に迎え、二人の息子がランカスター朝の創始者ヘンリー四世です。
シャルル・ド・ヴァロア
アラゴン王ペドロ三世を破門にしたローマ法王は、アラゴンに対する十字軍を提唱します。フランス王フィリップ三世(聖王ルイの息子、シチリア王シャルルの甥)の息子シャルルが新アラゴン王に立てられました。
けれどもアラゴン十字軍は散々な結果に終わります。シャルルはアラゴン王位を諦めるかわりにヴァロア伯となりました。
フィリップ三世の孫の代にカペー家の男系は断絶、シャルル・ド・ヴァロアの息子がフィリップ六世としてフランス王に即位します。フィリップ六世は前フランス王とは四親等離れていました。これに対して女系で三親等しか離れていないイングランド王のエドワード三世がフランス王位継承権を主張してフランスに侵攻。英仏百年戦争が勃発しました。
アバカ(イル汗)
チンギスカンの末子トゥルイの三男フレグが西アジアに立てたイル汗国の二代目。再興ビザンツ皇帝ミカエルの娘を皇后に迎えてビザンツと同盟を結びます。当時のイル汗国とビザンツはエジプトのマムルーク朝と対立していた。イル汗王族はネストリウス派のキリスト教を受容しました。元の世宗(フビライ)の甥に当たります。
また、ビザンツとイル汗国の間には小アジアのトルコ人諸侯が挟まっていた。これもあって、ビザンツとイル汗国は直接対決を避けることができた。彼等はイスラム諸王朝が中央アジアから連れてきたトルコ人傭兵の子孫である。その中のオスマンが14世紀初頭に頭角を現して、ビザンツを圧迫し始める。これもビザンツとイル汗国が提携した理由の一つ。オスマン族は銃器を駆使する西洋の戦法を取り入れて騎馬中心のイル汗国に勝利します。オスマン・トルコの祖です。
マキャベリ
シチリア王シャルルを統治のためには手段を選ばない理想的な君主として褒めている(らしい、君主論はまだ読んでいないので・・・)。
ダンテ
「神曲」で、不手際によってシチリア島を失ったアンジュー家と歴代ローマ教皇をこき下ろしている。
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