「サウンド・オブ・ミュージック」の背景
陰暦 十二月三日
リッペンドロップの伝記(「ヒトラーの外交官ーリッペンドロップは、なぜ悪魔に仕えたか」ジョン・ワイツ著、久保田誠一訳 サイマル出版会)を読んでいたら、オーストリア併合の下りで映画「サウンド・オブ・ミュージック」に関連する話が不意に出てきました。
チロルは十四世紀からのハプスブルグ領でした。ハプスブルグ家は十三世紀から十四世紀にかけてアルプスに領土を広げようとするのですが、ハプスブルグ家による接収を潔しとしなかった西部の諸侯は造反し、これがスイスになります。同調せずにハプスブルグ家に忠誠を誓った東部地域がチロルです。
スイスの傭兵同様にチロルの兵隊も強く、常に皇帝軍の核となって戦っています。忠誠心は随一でした。これはことあるごとに皇帝に反抗したスイスへの対抗心もあってのことだったとどこかで読んだことがあります。日本で言えば皇室と十津川郷のような関係です。
南チロルはドイツ人とイタリア人の混住地域でした。そのため、十九世紀に統一を実現したイタリア王国は、オーストリア領の南チロルとトリエステを併合しようと画策します。「回収されざるイタリア」というスローガンが使われました。
この両地域は必ずしもイタリアに帰属意識は持っていなかったし、イタリア人が圧倒的多数というわけでもなかったので、目的は住民の保護ではなく、オーストリアにえぐられる格好になっている南チロルと、古代からの良港であったトリエステが国防上ほしかっただけでしょう。燕雲十六州と関東州みたいなものです。
「回収されざるイタリア」と「最後の授業」(普仏戦争でプロシアに併合されたアルザス地方の話、しかしアルザスの主要言語は実はドイツ語)は実態を表さないプロパガンダであったのではないかと私は思っています。
南チロルとトリエステを巡ってオーストリアと対立していたこともあり、イタリアは第一次世界大戦では三国同盟を抜け出して中立に立ちます。戦後はオーストリア・ハンガリー帝国解体のおこぼれに預かって両地域を併合します。オーストリアの貴族であったトラップ家の領土は南チロルにありました。ゲオルグはトリエステを母港としたオーストリア海軍の英雄です。Uボートに乗ってイタリア戦艦を撃沈しています。
南チロルのドイツ系住民は、第一次世界大戦後にイタリアの同化政策を強いられて迫害されます。映画では出てきませんが、ゲオルグは元臣民とイタリアの間に立って苦労したはずです。
トラップ家とその関係者は「サウンド・オブ・ミュージック」のゲオルグの描き方に不満を持っているらしいのですが、これはおそらくイタリアによるチロル迫害がごっそり抜け落ちていることを指しているのではないかと私は思います。オーストリアは東西冷戦の最前線でしたので、オーストリア人はいざというときに協力してもらわなければならないイタリアを悪く言うことはできませんでした。
「ドイツ人問題の解決」を訴えてヒトラーがオーストリアを併合した際に、南チロル住民は南チロルのオーストリアへの復帰、もしくはイタリア同化政策の軟化を期待しましたが、ヒトラーはオーストリア併合をムッソリーニに黙認してもらうかわりに、(南チロルは"租借"ということにしてイタリアに明け渡します:当該書以外で確認できず、租借の下りは著差の思い違いの可能性もあり、ただしヒトラーが南チロルの領有権主張をしなかったのは事実)。
さらに"解決"のため、イタリアへの同化を望まない住民へのドイツ移住(それも東プロイセン!)を進めました。イタリアに残った住民も平野部に強制移住させられて、イタリアへの同化を強いられました。
トラップ家の米国亡命は、どうやらナチス・ドイツだけでなく、イタリアへの抗議の意味合いもあったようです。
第二次世界大戦後、南チロルの自治は拡大される約束でしたが、イタリアがなかなか約束を守らなかったため、何度か住民と官憲の衝突が起きています。ようやく住民と政府の交渉が始まったのが1972年で、自治が拡大されてドイツ語とイタリア語の二カ国語制になったのは1989年のことです。
十津川といい、チロルといい、バスクといい、山岳地域というのは一風変わった場所が多いのかもしれません。
チロルは一度訪れてみたいと思っている場所の一つです。
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