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2008年3月 5日 (水)

「春秋左氏伝」に登場する倭人

陰暦 一月廿八日 【啓蟄】

 「春秋左氏伝」の定公四年に興味深い記事がありました。

 この当時、長江下流では呉と越が勢力を伸ばし、それまで南方の盟主であった楚を圧迫し始めます。呉王闔廬は楚で内紛に敗北して追放された卿・大夫を積極 的に受け入れて国を強化して楚に戦いを挑みます。呉は舟と防水加工した車を駆使して、楚の都である郢に迫ります。楚は象軍を使って防ごうとしますが、呉 の侵攻があまりに早かったため、楚王は郢から逃亡しました。

 水軍と戦車を使った機動戦、そして当時の江南には象がいた、これだけでも十分に興味深いのですが、もっと気になるのが、この時に楚王がただ一人一緒につれて逃げた"妹"なる女性で、その名前は"季羋畀我"と記述され、平凡社版では「きみひが」と訓を振ってあります。

 表記を見ただけで当て字であることが分かりますので、この女性は当時の支那文化圏の人間ではないでしょう。楚王の妹とありますが、当時の楚の人間は姓は二文字でしたが、字には既に中原風の漢字二文字の名前を使っていました。そもそも、支那では普通女性の名前は記録に残らず、実家の姓を使って○氏と表記されるのが普通です。結婚する前の公女ならば○姫などと春秋では普通書いています。というわけで、この女性は楚王の本当の妹ではない可能性が高い。

 この時楚王は夜逃げ同然で郢を落ち延びています。こういう場合、身分が高い正妻は王と一緒に逃げたりしません。正妻は普通他国の公女ですので、敵も味方も死なれては困るので、戦いが始まる前に郊外に逃げるか、仮に戦いに負けたとしても、占領側が人質として鄭重に扱います。従って、この女性は楚の公女でもなく、正妻でもないので、楚王の愛妾である可能性が高いと言えます。

 さてもう一度名前を見てみると、四音節で、一音節が全て子音+母音の単音節です。音韻のことはよく分からないのですが、これは支那・チベット語族の名前ではありません。そう、これはおそらく名前が残っている最古の"倭人"ではないかと私は思います。

 とはいえども、さすがに日本列島から大陸に渡った倭人が楚王に愛されたとは考えにくいので、江南のあたりには倭人と同じような名前を持つ人達がいて、そのうちの誰かが楚王の後宮に入ったのでしょう。この女性は江南から西へ向かいましたが、江南から東海へ出た人は我々の祖先の一部になりました。こちらの方は色々な証拠から確認されています。

 一つの名前からかなり想像の輪を広げてしまいましたが、あながち無理な説ではないと思っています。

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