李代桃僵(一)
陰暦 三月十八日
近世後期の藩政改革の続きです。江戸時代の武士は、建前は藩を守るための兵士でしたが、それは形式だけで、実態は官僚でした。
しかし、農村は豪農が村役人に任じられて自治を委せられていましたので、武士は村役人の上にいる少数の管理職以外は実態のない無為徒食の存在でした。治 山治水すら、藩が金を出すことが決めたら、実行は入札した民間の業者に任されるのが普通でしたので、実質的に役に立つ活動をしていた武士は出納役だけとい うことになると思います。
それ以外は格式とか儀式に存在意義を見出すしかありませんでした。これでは平安貴族と一緒です。近世後期に武士が困窮した理由として、儀礼費がかさんだことがあげられますが、これも仕事がなくなったので虚飾に走った結果ではないかと思います。
藩政改革によって豪商や豪農に任される仕事はますます拡大しました。特産品の生産拡大、販路の拡大、両替商との交渉などで力を発揮したのです。
あえてモデル化しますと、実体がなくなった従来の藩組織は極限まで規模を縮小してしまい藩の経営を圧迫しないオマケにしてしまう。そして開拓や特産品の売買で生み出された新たな富を用いて藩主直轄で、経営は豪商・豪農層がになうもう一つの藩をつくる。このような財政の二分化が行われたのではないかと私は考えています。
前に村田清風で見たように長州藩でも干拓や蝋の販売で得た利益は、武士には分配されず、軍備の近代化や京都での政治工作に使われていました。同じく薩摩藩でも、砂糖で得た利益が幕末の活動の原資となっています。
織豊政権が進めた兵の土地からの分離は、土地の所有権を兵が私物化してしまい、財産争いのせいで世の中が不安定化する弊害を防ぐための政策でした。
それから百数十年たって、藩という法人の中での、土地からは分離したバーチャルな数字だけの所領が武士にとって絶対に手放せない既得権になってしまったといえます。結局藩主もこれに触ることはできず、新しく成長した商工業中心の経済に藩を近代化するための活路を見出さざるを得ませんでした。
第一の部分は従来型の米中心の社会。第二の部分は近世になってから成長した商工業の社会です。明治維新とは米社会を商工業の社会が倒した変革であったといえます。
※補足 ここで言う「藩主」とは、必ずしも藩主個人を指すのではなく、近世後期の藩政改革が志向した中央集権的な藩組織の中心としての理念的な君主を指しています。
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