インド・アーリヤ人征服説は虚構である(一)
陰暦 六月廿九日
この前の長崎旅行の帰りに買った「古代インド文明の謎」(堀晄著 吉川弘文館)がなかなか面白かった。
著者は考古学や遺伝学の研究成果からアーリヤ人インド征服説に異を唱えています。アーリヤ人征服説は定説として扱われていますが、驚いたことに根拠は ヴェーダにしかないそうです。あとは、各ヴァルナ(カースト)を構成する人に多い顔や肌の色から類推したに過ぎないのだとか。
帯には「神話歴史観に引導を渡す」とありますが、私が読んだところ、アーリヤ人征服説は神話の解釈としても根拠が薄いと思いました。ヴェーダを素直に読んだところで、アーリヤ人が原住民を征服したという結論は出てこないと思います。やはりこれは鼻息荒かった白人が、インド支配を正統化するために作り出した妄想であるのでしょう。
日本列島でも、江南や朝鮮半島から渡来してきたいわゆる弥生人は、それまで日本列島に多く住んでいた縄文人を、必ずしも滅ぼしたり支配下におきながら日本列島に広がったわけではなく、平地と山で棲み分けたり、場所によっては縄文土器と弥生式土器が混ざって出土したりしていますので、共存しあいながら融合していったのではないかと考えられています。文化の出会いは必ずしも征服や破壊に限ったわけではない。
まず、ミトコンドリア遺伝子による分類では、北インド人(印欧語)と南インド人(ドラヴィダ語)の方が、北インド人とイラン人(印欧語)よりも近いという結果が出ています。北インド人と南インド人は、顔の造形はだいぶ違って見えるのですが、意外と遺伝的には近いといえます。
インダス峡谷で出土する動物の骨を調べると、時代が下るにつれてガゼル(野生の牛)から羊や牛といった家畜が増えていくのが観察されます。これはインダス峡谷で農耕が始まって、草原が開拓されて耕地化されて野生生物が駆逐されたからです。そのままインダス文明まで出土する動物の骨の種の割合は連続的に変化しています。
さてそのインダス文明の遺跡から出土する牛はコブ牛で、これは現在でもインドで飼育されている牛です。アーリヤ人インド征服説では、南ロシアを出発した牛を飼育するアーリヤ人が、乾燥地帯で一度牛を失い、インダス峡谷で再び牛を獲たという説明をしていますが(南ロシアで飼育されている牛はコブ牛ではないから)、これは著者が言うとおり牽強付会に過ぎます。むしろ、インダス文明は連続的に現代のインドまで受け継がれていると考える方がしっくりくる。
ヴェーダで謳われている理想的な都市の区割りとインダス文明の都市の区割りとインダス文明が滅んだあとにガンジス川流域で広がったインド文明の都市の区割りには共通点が認められるそうです。
ある民族が政治的・経済的な理由から、伝統とは全く異なる言語を使うようになることは珍しいことではありません。
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