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2008年8月 1日 (金)

インド・アーリヤ人征服説は虚構である(二)

 以上のような証拠から、著者は、アーリヤ人インド征服説は虚構であろうと推測します。そして、インド・ヨーロッパ語族の故地は従来考えられていた南ロシアではなく中近東であり、乾燥地に適した牛と羊の牧畜と灌漑を組み合わせた農業を生み出した人々であろうといいます。

 東に広がっていった印欧語族は、ペルシャ、中央アジア、インダス峡谷で発展します。これは古代の都市の遺跡やメソポタミアに残る伝承から追うことができるそうです。やがて、本来の印欧語族の故地ではアフロ・アジア語を使うセム語族が支配的になったため、見かけ上は印欧語族の分布中心は南ロシア平原のごとく見えるようになってしまいました。

 インダス峡谷で高度な文明を発達させた印欧語族は、どこかの時点で従来の麦に加えて米を栽培する技術を手に入れて、それ以前からインドに居住していたドラヴィダ系と溶け合いながらインド文明を作り上げたのだろうと著者は推測しています。

 なぜ、印欧語族がインダスの地を捨てたのか(あるいは捨てざるを得なかったのか)と、麦中心から米中心の農業への変革が起きたのかは今後の研究課題とありました。

 米作を柱とした長江文明は、麦作を柱とした黄河文明よりも起源が古いことが考古学の研究から明らかになっています。ですので必ずしもインドの米文化の発明者として印欧語族を想定する必要はなく、インダス文明と同じかそれよりも長い歴史をもったドラヴィダ族による米作中心のガンジス文明を想定しても良いのではないかと私は考えます。この点は著者もまだ古い学説にとらわれているといえます。

 そして、通商路が衰退したか、あるいは灌漑の宿命である土壌の塩化により、インダス文明は農耕が困難になり、ガンジス川の方へ移動したのではないでしょうか。そこで、ドラヴィダ族の米作と出会い、麦・米・牧畜が融合した現代まで続くインド文明が生まれたと考えるべきではないか。

 ただ言語や体格などから判断するに、融合してできたインド文明では、かつてのインダス文明の担い手であった印欧語族の方が支配者側になったらしいことは否めないと思います。おそらく人間を組織的に動かす技術に長けていたのでしょう。武器を作る技術も進んでいたのかもしれません。けれども、南インドに行くとヴァルナは緩いですし、バラモンだからといって必ずしもコーカソイドの顔立ちをしてはいないようです。

 また、私はインドを旅行したときに「ネパール人か?」と何回か尋ねられましたので、北インドでも色々な人種がいるようです。印欧語族が支配的なのはガンジス川流域だけ、あるいは英国人が入ることができた都市部だけであって、全土に渡って隈無く調べれば、「印欧語族が支配層を締めているインド」などという概念は雲散霧消してしまうのではないか、とすら私は考えています。

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