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2008年9月 6日 (土)

辺境伯

陰暦 八月七日

 友人との会話で話題になったので覚え書きとして書いておきます。多分読んでいるはずだから。

辺境伯 (Markgraf)
 カール大帝がフランク王国の辺境地帯に設けた軍事・行政管区(マルク)の支配を委ねられた伯。国境警備という任務上、通常の伯よりも大きな権力を有し、オーストリアやブランデンブルクなど自立的支配領域形勢の先駈けとなった。(角川世界史事典)

 カロリング王家が東方と北方(だいたいかつての西ドイツに当たる地域)で対峙しなければならなかった相手はスラブ人とデーン人でした。

山川出版の「ドイツ史」から記事を抜き出すと、

ザクセン辺境伯
 カール大帝の支配に強硬に反抗したザクセン族を支配するためにおかれた辺境区。カロリング朝に投降したザクセン人は貴族として報じられた。やがてカロリング王家と縁戚関係を結んだリウドルフィング家が、ザクセンの貴族達の中で抜きん出た勢力を持ち、国王からザクセン外の修道院と王領地を与えられて独立した勢力を築き上げる。

テューリンゲン辺境伯
 ザクセンとバイエルンに挟まれた地域。メロビング朝と熾烈な争いをしたテューリンゲン王国があった地域におかれた辺境区。六世紀頃メロビング朝はザクセン族と共同してテューリング王国を滅亡させた。その後テューリンゲンはザクセン族・スラブ族と戦う前線となりフランクの有力な貴族が辺境伯に任命されていた。

バイエルン辺境伯
 バイエルンの語源は、ケルト系のボーイェル人(ラテン語名ボイイ)の住んでいたベーメンの出身者という意味の「バイオ・ウァリイ」。六世紀の後半には五つの集団にまとめられ、ゲルマン人の中では割合組織化されるのが早く法も持っていた。六世紀末にはベーメン、(現在の)バイエルンから膨張して、ローマ人居住地のザルツブルグや北ティロールを占領した。
 細かい経緯が本には書いていませんでしたが、八世紀までにはバイエルンは大公の下にまとまっていたようです。ブルグンド王家と縁戚を結んでいて、カロリング家とも遠縁でした。バイエルン大公タシロ三世はいち早くカロリング朝に臣従を誓いますが、カール大抵の切り崩しにあって、バイエルンはフランク王の支配が強まります。その後はハンガリー方面から侵出してきたマジャール人と戦う前線となりました。フランク王国が分裂してからは、東フランク王家を支え続けます。辺境伯にはアルテルヌ(在位887~899)の側近のルイポルトが任用されています。

ゾルベンマルク辺境伯
 フランケン地域

ブランデンブルグ辺境伯
 1134年アスカニア家のアルブレヒト熊公がこの地に封ぜられたのが始まり。十三世紀になってから、その東側にドイツ騎士団領が設定されて、ブランデンブルグ辺境伯はその後背地となり、ブランデンブルグ伯はドイツ騎士団の代理人のような地位になる。
 1415年ドイツ南部のシュヴァーベンの貴族ホーエンツォレルン家のルードヴィッヒ六世がブランデンブルグ伯になる。
 16世紀にリヴォニア朝ポーランドが勢力を強めたため、ドイツ騎士団領は一旦ポーランド王の宗主下に入る(ただしホーエンツォレルン家を通して、すなわちポーランド王→ホーエンツォレルン家プロイセン大公→ドイツ騎士団という主従関係になる)。
 2003年にベルリンのユダヤ人博物館で見た展示では、ホーエンツォレルン家はユダヤ人保護政策をとっていたと書いてありました。ホーエンツォレルン家が皇帝となったドイツ帝国でも、ユダヤ人は割合自由に活動しています。ナチスはプロイセンを敵視する主張をしており、ユダヤ人とプロイセンとポーランド人を故意に混同するような主張をしているのですが、この当たりに原因がありそうです。

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