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2008年11月 8日 (土)

自然保護はどこまで進めるべきか

陰暦 十月十一日

 行き過ぎたマネーゲームが収束し、株式も不動産も、二十年くらいのスパンで上がりから元手が取れるレベルまで価格が下がったのは悪いことではないと思っています。実業と金融はお互いバランス良く発展しなければなりません。

 金融危機で穴を開けた人や、一旗組は、今後しばらくは二酸化炭素取引で、お金をかき集めてドロンしようとする可能性があります。これについては今のうちに芽を潰して再びバブルによって大勢が不幸になる過ちを防がなければなりません。

 そもそも温室効果ガスが気候変動をもたらしているという説には科学的な根拠が薄く、IPCCのレポートには気象学者から多くの疑問点が提起されています。

 地球物理学をかじった立場から言わせてもらいますと、温室効果ガス脅威説は、眉唾といわざるを得ません。

 工場や車両から排出されるガスから、未燃カーボンや酸化窒素を取り除くことと、工場排水から有機物と化合した金属を取り除くことには賛成です。最終的にはゼロを目指すべきと思います。これははっきりと動植物及び人体に被害を出しているからです。

 ですので、燃料消費の削減は、純粋に経済的観点と地球に残されている資源量とのかねあいから語るべきというのが私の考えです。省エネが進めば、日本全体で輸入による国富の流出が減りますし、電気・ガスも安くなり、ドライバーや運送業者の支出も減ります。

 しかし、EUのように製造業を減らしてまでエネルギー消費を削減せよという主張には与することはできません。もしそのような主張が政治的に力を持つようになった場合は、私は積極的に反対に回ります。勤務先にとって打撃であるだけでなく、日本、引いては世界の人を不幸にするからです。

 二酸化炭素の排出を減らそうとすると、農業とサービス業に移行するしかなくなりますが、このEUの国家モデルが失敗したのは今回の金融危機でも明らかです。第一次・第二次・第三次産業はバランス良く発展する必要があります。

 次に地球に残されている資源量とのかねあいですが、石油と天然ガスは生物起源ではなく地球ができたときに構成元素として含まれていた炭素が地殻に残ったものでしょう。炭素は鉄やマンガンやケイ素と比べて軽いですからね。元を辿れば太陽の一世代前の恒星が、老齢期に核融合によって生成した元素にたどり着きます。

 ですので、少なくともあと百年はなくならないと思います。私の勘では千年は保つと思います。ただし最短では五十年くらいで、人間によって獲得可能な範囲では枯渇する可能性があるので、五十年かけて計画的に化石燃料に替わる燃料と樹脂原料を研究する必要があります。

 二酸化炭素について、大気は既に光学的には飽和状態なので、これ以上増えても温室効果はもたらしません。それどころか、地球の歴史では大気中の二酸化炭素濃度は危険なほどに低下しています。これ以上減ると、植物は光合成が困難になります。なぜ二酸化炭素が減ったかというと、私の考えでは海水と一緒にプレート運動によって地溝からマントル中に閉じこめられたからです。二酸化炭素は酸素と窒素よりも水に溶けやすいですから。

 光合成を活発化させ、食糧を確保し、緑化を進めるためには、二酸化炭素の増加と温暖化が不可欠です。むしろ人類は積極的に石油や天然ガスを燃焼し、地球に貢献するべきです。未燃カーボンと埋蔵量の問題さえ解決すれば、大気中の二酸化炭素濃度が上昇して呼吸困難にならない限り、人類は積極的に石油を燃焼させるべきだというのが私の意見です。

 中生代くらいまで大気中の二酸化炭素濃度を上げるのが良いのではないでしょうか。あの時代には驚異的なほど大きな陸上生物が地上を闊歩していました。二酸化炭素濃度が高く、極地草が生えるほど温暖で、光合成が活発だったからです。反対に水中生物は新生代の方が巨大化しています、寒冷化して水中の二酸化炭素と酸素の濃度が上がったからです。

 太陽光発電は、製造過程を含めると、火力発電よりも多くの二酸化炭素を排出している可能性があります。しかも温帯では日照量が不安定なので、結局は火力発電と原子力発電を常時スタンバイさせる必要がありますので、二酸化炭素削減効果はありません。日照量が安定していて、電線や変電所といったインフラを建設する余裕がない乾燥帯でしか役に立たないでしょう。逆に沙漠やステップ地帯では積極的に導入するべきかもしれません。あと極地も太陽光線は弱いものの晴れの日が多いので、送電設備を作るのが大変である場合は導入が意味を持つでしょう。

 原子力発電には反対ではないものの、いつまでたってもあまり効率化が進みません。これは石油に替わる燃料が見つかるまでのつなぎとしてしか意味を持たないのではないかというのが私の見立てです。

 それを承知で、内需拡大のために建設するのだというのなら、積極的には反対しません。石油が極端に高くなった場合は(今回の価格上昇局面は収束しましたが、今後とも石油価格は折に触れて上がるでしょう)、発電効率の悪さと、廃棄物処理のコストを計算に入れても経済的にペイする可能性があります。そういうときの転ばぬ先の杖として、増設する意味はあるかもしれません。

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コメント

自然となると結構幅広いものになってしまいます(笑い)が、温暖化は本当か?はあるんです。北海道から東北の沿岸部の「磯焼け」岩が白くなる(海草が付着しない)がありますが、あれも海水の酸化と養殖漁業(貝類)の影響が大きいんだと思います。
べっちゃんのいう通り、二酸化炭素の海水への吸収の影響はあるが、一般の人は山の荒廃のせいだとなります。この当たりが「自然を守れ」なんですが、守るのは地方の人達なんですが、移住してまで守る(労働人口増)には繋がりません。
風力発電もエコ派の鳥類系の人達は反対が凄いですし、太陽光発電も実際には難しいと思うんです。ただ、排出権取引としては、電力会社は家庭でソーラーキットを載せる事で、排出権を買い取ることができ、結果として火力発電の存続が図られる。
原発は、公共交通機関の電気化が進めば進むほど、電力消費は伸びますから必要となります。生活から電力を必要としないもので満足はできないですよね。

投稿: 保守系左派 | 2008年11月 8日 (土) 20時14分

 いくら人類が頑張ったところで、十万年も経てば、自然に人類という種はこの世から存在しなくなります。

 その時、人類が知能と人類としての記憶を持ったまま新しい種になるのか、それとも絶滅するのか、それは誰にも分かりません。

 人類という種が絶滅した後、自然は一万年も経たずに、再び平衡を取り戻すでしょう。人類がいくら自然を破壊したところで、地球にとってはへでもありません。

 ですので"人間にとって心地よい"環境を守るというのはあると思います。あくまでわれわれの文明を守るためなんですよね。

 日本人は、樹木が繁茂する環境に心の平安を覚える文化を持っているので、日本の文化を守るために、森林や白砂青松を守るのは、十分に意味があることだと思います。国民的合意が得られれば、今以上に公費をつぎ込んでもいいと思います。

 ただ・・・砂漠に住む民族には日本人が森林を好むのと同様に沙漠を守る権利があると思います。それは押しつけてはいけません。

 ただし、森林ができることにより、雨が降り、畑作ができるようになることに、沙漠の民がメリットを見出せば、沙漠を緑化してもいいと思います。

 ですので、地球環境を守るためにエネルギーの消費を絞れ、という意見には賛成はできませんが、日本文化を守るために森林を守ろう、海をきれいにしよう、という意見ならば私は喜んで賛成します。

 結局、今はびこっている自然保護運動は日本人やケルト人・ゲルマン人のように森林に郷愁を覚える人間のエゴなのです。それを自覚した上でならば、われわれの優れた文化を広めることには大いに意味があることだと思います。

投稿: べっちゃん | 2008年11月 8日 (土) 20時43分

文化の押し付けを別のものでやってきたことが、20世紀の悪い部分であったのでしょうね。
すみません。本日は自分の集落のささやかな祭りの日でして、飲んでました。
飲みながらというのは、凄く失礼なことでもありますので、申し訳ないです。
ゲルマン人の森林への郷愁(ニーチェ?)と日本人の山岳信仰はまた別ではないかと。
秩父のえーと名前が池袋から特急乗ってハイキングする際に、神社に登る前に仰ぎ見て「山青くして・・・」とはこのことか、というのはありました。

投稿: 保守系左派 | 2008年11月 8日 (土) 21時17分

 お祭りですか、お疲れ様です。

 森林が多くて、水はきれいで、砂浜も広がっていた方が、幸せな気持ちになれるし、科学技術に基盤をおく社会であっても、そのような環境が維持されている国の方が発展できると、勘では思います。

 きれいな水がないと、精巧な工業製品は作れませんし、学者や技術者のインスピレーションにも良い影響を与えると思います。それと日本人がいうところのきれいな自然が維持されている方が、災害を防げて、結局は社会的な支出が少なくて済むと思います。

 しかし、アラブ人が同じように考えるかというと、もしかしたら違うかもしれません。

 塩野七生先生が書いていましたが、ローマ時代に穀倉地帯であって北アフリカが砂漠化したのは、沙漠を尊び、交易を重視し、農作業を軽視するイスラム教が広まって、遊牧と交易に社会の基盤が移ってしまったからです。

 文化によって望ましい自然は変わってしまう例だと思います。

 現在の高度工業社会では、日本や欧州のような森林地帯の方が富が蓄積できます。湾岸諸国が緑化に力を入れているのは、その辺の所にも気がついているからなんでしょうね。

投稿: べっちゃん | 2008年11月 8日 (土) 23時38分

昨日はすみませんでした。
前日の維持審査も無事終了しCARが0でホッとしたのもありましたし、コンプライアンス・プログラム(CP)を仕上げて、ウンザリしていたのもありましてね。

>塩野七生先生が書いていましたが、ローマ時代に穀倉地帯であって北アフリカが砂漠化したのは、沙漠を尊び、交易を重視し、農作業を軽視するイスラム教が広まって、遊牧と交易に社会の基盤が移ってしまったからです

この当たりは、読み飛ばしていましたね。

>"人間にとって心地よい"環境を守るというのはあると思います。あくまでわれわれの文明を守るためなんですよね。

自然保護活動を否定はしないんですが、「文明や進化、発展」を否定するようなのが、今の活動には混じってるように感じられるんですよね。

>EUのように製造業を減らしてまでエネルギー消費を削減せよという主張には与することはできません。もしそのような主張が政治的に力を持つようになった場合は、私は積極的に反対に回ります。勤務先にとって打撃であるだけでなく、日本、引いては世界の人を不幸にするからです。

製造業のアウトソーシング(外国への移転)や技術移転については、自分は凄く否定的で国内製造業や生産者の保護は必然であると思っているので、「なんでも中国」はイヤ。

それにしても、個人情報保護や技術情報管理としてのISO15001(JIS Q 15001)的な統制を要求しながら、外部依存を深めるってどういうことなんだろう。

投稿: 保守系左派 | 2008年11月 9日 (日) 06時28分

 日本人の自然保護を突き詰めていくと「山川草木にも命が宿っているのでむやみやたらと殺してはいけない」という神仏習合的な生命観にたどり着くのではないかと私は思っています。

 しかしこれを言い始めると日本人以外とは議論にならなくなってしまうので敢えて外して自然保護の意義を組み立ててみました。

 欧州にも同じような思想があったそうです。神は全てを創造したのだから、ありとあらゆるものに神の意志が込められている。だから全ての生命が神をたたえ合うことができるといった。グノーシス主義というらしいのですが。

 鹿や兎にも説教をした聖フランシスコとか、人と牛が共感し合うシャガールの絵なんかがその表出だそうです。山本七平さんの本にありました。

 自然保護運動の根っこにはこれがあるのではないかと思います。

 同時に両者には「工業と商業はろくな物ではない、高潔な政治家と勤勉な農民だけがいればいいんだ」という思想も根強くあります。日本の場合は孟子の儒教で欧米の場合は清教徒です。

 グノーシス主義と清教徒が合体すると、「自然に帰れ」「工業なんぞいらない」という主張が生み出されます。

投稿: べっちゃん | 2008年11月 9日 (日) 09時29分

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