五胡十六国や吐蕃の影響
陰暦 十一月廿日
東方選書の「匈奴」(沢田勲著)、「五胡十六国」(三﨑良章著)、それと「日本人の目から見たチベット通史ー西蔵の伝承と通説を検証」(小松原弘著 東京図書出版会)を読んでいます。遊牧民というのに憧れがあります。政情が安定化したら、カフカスやサマルカンドに行ってみたいとずっと思っています。
三世紀から四世紀にかけて、アジアの内陸部が乾燥化し、遊牧民は飢餓に陥りました。乾燥化の影響で華北や欧州の東部は畑作に適さなくなり、農耕定住民の人口は減っていました。困窮した遊牧民は最初は労働力として後漢・ローマ帝国に侵入し、両国で政治的混乱が発生すると一気に数千から数万人の部族丸ごと侵入するようになりました。五胡十六個時代、ゲルマン人の大移動の開始です。
五胡十六国の細かい盛衰には触れませんが、華北に侵入した五胡はそれぞれの伝統を維持しながらも、徐々に漢族の風習を取り入れて、国家を整備していきました。
衰えたとはいえ、支那の南半分を支配していた強国であった東晋に、あるときは服従して官職をもらって敵国と戦う旗印として使ったり、またあるときは東晋と対等な立場を主張して戦ったりしました。
また十六国の一つの燕は高句麗と戦闘を繰り広げています。高句麗が現在の北京あたりまで侵入して、華北の勢力争いに介入したこともありました。
何が言いたいかというと、飛鳥時代に大和朝廷が隋唐に向かって自立を主張した際に五胡十六国と南朝の間の国際関係を研究して参考にしたのではないかということです。最初は冊封を受けて将軍位をもらい、次に王号を称し、最後に皇帝、もしくは天王位を称して南朝と対等の関係を主張した国がいくつかあります。大和朝廷はこの手順を意識していたように思うのです。
また、五胡十六国時代と南北朝時代に複数の皇帝がいたことも、日本の皇室が天皇を称する前例になったと思います。
それと、古代の倭国の君主は五胡と比較して、最初からかなり高い位を得ています。どうも漢王朝や南朝は、五胡よりも倭の方に近いものを感じていたようなのです。
吐蕃は四世紀頃に成立したチベットの王朝です。唐を何度も窮地に陥れたほどの強国でした。吐蕃の支那文明と仏教受容のパターンはこれまた聖徳太子以降の日本とよく似ています。冠位十二階まであったとは驚きました。
遣唐使は新年の行事で、吐蕃と同じ席次を得ようと努力しています。吐蕃の方は分かりませんが、日本は吐蕃のことを意識していたのではないかと思います。後に密教を国教としたのも日本と吐蕃は同じでした。
五胡や吐蕃の活動が古代の日本に与えた影響というのも無視できないのではないでしょうか。
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