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2008年12月21日 (日)

チベットの近代史

陰暦 十一月廿四日 【冬至】【納めの大師】

 「日本人の目から見たチベット通史」によると、チベットは大まかに言って東西二大勢力に別れていて、東側の前蔵がダライ・ラマを奉じ、西側の後蔵がパンチェン・ラマを奉じているそうです。

 外交方針は八百年前の元の時代から伝統的に、前蔵が独立志向が強くて支那とは折り合いが悪く、後蔵は支那と協力しようという傾向が強いようです。そしてモンゴル・支那・インド(英国)それぞれの力関係に会わせて、ダライ・ラマとパンチェン・ラマが交代して政権を握るという方法で生き残りを図ってきたいらしいです。

 二十世紀前半に、インドを占領していた英国は、チベットを勢力圏におこうとします。ダライ・ラマ十三世の政権が鎖国政策をとっていて埒があかなかったので、英国はチベットとは直接外交交渉を持つのは得策ではないと判断し、チベットは支那(当時は中華民国)の保護国であると勝手に決めて、支那からチベットの門戸を開放させる約束を取り付けました。そして「チベットが宗主国の支那の約束を守らないので成敗する」という口実をつけて、チベットを侵略しようとしました。

 英国のチベット侵略は、第一次世界大戦と第二次世界大戦のせいで英国の国力が弱まり、インドの独立運動が激しくなったので挫折しました。

 中華人民共和国はこの時の英国との約束を逆手にとって、チベットを解放する義務があるとしてチベットに侵攻します。チベットは周辺に青海、大里、タクラマカン、モンゴル、ブータン、シッキム、ネパール、ラダックなどの宗教的宗主権を発揮できる衛星国を持っており、これらが支那やインドから身を守る盾になっていました。

 チベットは敵対する勢力に対してはこれらの地域の民衆に命じて反乱を起こすことができ(色々複雑なので毎回すんなりチベットの命令を聞くわけではありませんが)常備軍を持たないチベットがモンゴル・支那・インドという強国に囲まれながらのらりくらりと独立を維持できたのはこの宗教的な力があったからでした。石山本願寺やバチカンみたいなものです。

 チベットを侵略するためには、チベットを取り巻く国々をまず手なづけないといけないわけですが、これらの国々は部族や宗教が複雑で、元や清やムガールにしても、周辺国の混乱に足を引っ張られてチベットを本格的に支配することはできませんでした。

 チベットにとって不運であったのは、中国共産党の人民解放軍が、四川や山西といったチベットの周辺部を地盤とした軍閥であったことでした。中共に対しては、青海や大里が防波堤として役に立たなかったので、この方面からの侵略に対して無防備な状態であったのです。ダライ十四世がまだ幼少でリーダーシップを発揮できなかったという事情も悪く働きました。

 頼みの綱の英国とインドは中共と戦争をする余裕がなく、非難声明を出すだけでした。1930年代にチェコやハンガリーを見殺しにしたのと同じことが発生しました。英国は実は海外で国同士の戦いをして勝ったことがないのです。ですので英国は外交ではとことん宥和政策で行くという伝統があります。英国が頑固に戦うのは対岸の欧州西部が敵対勢力に侵略されそうになったときだけです。

 初めて圧倒的大軍によって制圧されてしまったチベットは、人民解放軍の食糧現地調達によって経済を完全に破壊されて屈服しました。ダライ十四世は1959年にチベットを脱出してインドに亡命し、パンチェン十世がチベットの宗教的権威につきしましたが、当然中共の傀儡です。そして文化大革命の最中に、パンチェン十世も「反抗的である」として幽閉してしまいました。

 チベットは現在でも周辺部に影響力を持っていると考えられ、中共はそれを恐れているのだと思われます。

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