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2009年1月12日 (月)

御陰参りとデフレ(一)

陰暦 十二月十七日 【成人の日】

 江戸時代も元禄を越える頃になると人口の増加求まって超安定社会となって、貨幣経済の発達の割りには消費が伸びなくなり、恒常的な需要不足に陥りました。最も重要な商品であるお米の価格は下がり続けます。欧州の場合、富を国王が回収して軍備増強をして戦争をしたり、植民地を獲得したり、技術の革新に投資したりして富が活用されていたのですが、当時の日本は海外進出を停止し、国内でも戦争は禁止されていた上に、幕府や藩は科学教育には熱心でなかったので、支配者は金の使い道に困りました。

 仕方がないので武士は、ありあまった貨幣を借金という形で回収し、城の普請や大河川の改修といった公共工事、参勤交代や将軍のお成り(大名のお屋敷を将軍が訪問する、接待側は多大な失費を強いられ る)や儀式による出費、等に使って需要を増やそうとしました。

 幕府や藩は借金をすることで身を犠牲にして内需を作っていたといえます。いまの政府と同じです。次回に見るように、幕府が出費を怠ると、一揆や御陰参りが発生していますので、幕府も需要を作ることが社会を安定させるためには不可欠であることには気がついていました。「管子」や「塩鉄論」などの漢籍には需要と供給に似た概念がちゃんとありますので当時の為政者は需要を作ることの必要性を分かっていたはずです。

 折角需要を作っていたのに「贅沢ばかりしやがってけしからん」と学者や庶民から憎まれ口を叩かれていたところまで今と一緒です。

 また江戸時代中期は中緯度帯で寒冷化が起きて、不謹慎ながらうまいこと生産力も減ったので調整ができました。数十年続く寒冷化ならば人口も減りますが、数年の波で寒冷化や干魃が襲ってきましたので、人口は減るところまでは行きませんでした。人口は減らず、作物の生産量だけが減少したので、ちょうど良い生産調整になったといえます。

 米はあまっていました。どんなに大規模な飢饉であっても、被災地域は日本の半分にもなりませんでしたから、普通に耕作できた地域から米を運んでくれば、人が死に絶えるまでのことはありませんでした。

 そしてもう一つ、庶民が自発的に行った需要喚起策があります。御陰参りです。

 御陰参りというのは約六十年の周期で江戸時代の間に四回発生した伊勢神宮への巡礼の大流行です。通常年間70万人程度だった参拝客数が、一年で500万人にまで増えたと言います。当時の日本の総人口が約3,000万人ですから、6人に1人が伊勢へお参りしたことになります。東海道に限っていえば割合はもっと高かったことでしょう。

 御陰参りは熱に浮かされて着の身着のまま出発することが多かったそうです。沿道の人は、巡礼客に只で食糧や宿泊の世話をしました。群衆の狂気が怖かったというのが正直なところでしょうが(笑)

 当然参拝をしている間は生産活動は停滞するはずです。

 このようなヒステリーが発生しても世の中が混乱しなかったのは、正の効果があったからです。すなわち、

  1. 御陰参りで労働者がサボることにより過剰な生産が調整された
  2. 参拝者が純消費者になることで内需が拡大した
  3. 巡礼によって人と物が移動して需要喚起になった
  4. 沿道の人は巡礼客の世話を強いられて、タンス預金が出回って貨幣流通量が増加

など御陰参りにはデフレ不況を脱するための要素が詰め込まれていることが分かります。

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