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2009年1月13日 (火)

御陰参りとデフレ(二)

陰暦 十二月十八日

 四回の御陰参りはどのような情勢の中で発生し、収束したのでしょうか?

 面白いことに御陰参りの発生と収束はインフレ・デフレと大いに関わっていることが分かりました。御陰参りの四回とも、江戸時代の金融の転換点と同時期に発生しています。

 第一回の御陰参りは慶安三年(1650)にありました。この時期は徳川幕府の鎖国が定着した時期です。「シルバーロードと日本」でみたように、鎖国の目的は贅沢品の輸入を減らして、国内のインフレを抑制することにありました。この頃立て続けに贅沢禁止令が出ており、桃山時代以来続いていた支配層の贅沢消費による需要が急減した時期に当たります。翌年には由井正雪の乱が発生しています。

 慶安四年には江戸で両替屋が開業し、慶安五年には大阪で手形の繰り延べが奨励されています。金融の技術が発達したことが分かります。鎖国の後にインフレが収まるのですが、このような金融の発達も大きな役割を果たしたことでしょう。

 第二回の御陰参りは宝永二年(1705)にありました。この時期は物価の統制と利子の引き下げが行われており、翌宝永三年から有名な荻原重秀の貨幣改鋳によるインフレ政策が開始されます。大地震や天候不順による飢饉が発生しています(富士山の噴火は二年後)。

 はじめインフレに対して幕府が強権をもって無理に経済活動の縮小を図ったわけですので、庶民は金の使い道に困ったはずです。だから御陰参りによって庶民はあふれた金の使い道を作り出したと言えそうです。荻原重秀の貨幣増刷によって御陰参りが収束しているのが示唆的です。

 第三回の御陰参りは明和八年(1771)にありました。この時期は広い地域で干害が発生し、幕府は倹約令と、大名や寺社に借財禁止令を出しています。つまりデフレ政策を行ったわけです。

 面白いことに翌年有名な南鐐二朱銀が発行されています。これも貨幣増刷でした。今回も貨幣増刷によって御陰参りが収束しています。

 第四回の御陰参りは天保元年(1830)でした。この時は前年に大水害が発生しています。南鐐一朱銀が発行されています。これはインフレ政策です。この時は翌天保二年から大規模な河川改修工事が全国の天領で開始されました。天保三年には二朱半金が発行され、古金銀との交換は延期されました。つまり幕府は貨幣流通量の増加を図ったわけです。

 こうしてみると、どうやら物価の急激な高騰がまず発生し、それに対して幕府が経済を無視したデフレ政策をしようとして経済が混乱し、民衆の不満が溜まって御陰参りが発生、その後幕府は通貨増刷や公共事業といったインフレ政策をすることによって、経済の混乱が収束されていき、御陰参りが沈静化するというパターンが読み取れそうです。

 江戸時代の日本というのはたえずデフレに落ち込む危険性があった時代でしたが、実際にデフレが発生してしまうと経済が混乱し、幕府は不承不承インフレ政策を行うことによって経済が安定化していたようです。

 それにしても庶民の生活を楽にするためには貨幣流通量を増やせばよいと言うことが分かっていたとは、江戸城に詰める老中たちは現代の日本の指導者よりも経済のことが分かっていたと言えるでしょう。

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