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2009年4月13日 (月)

高麗神社参拝記(三)

三月十八日

 聖天院は元は勝楽寺と呼ばれ、高麗郡の祖である高麗王若光を弔うために建立されたお寺で、代々の高麗氏の菩提寺として、土地の人々の篤い信仰を受けました。聖天院の縁起(由来、歴史)。天正八年(1580)からは法相宗から真言宗にかわり、今に至っています。


 高麗神社の南側から聖天院を望む。飛鳥や吉備高原に似た風景です。だいたい私の経験から言って、古代人が住んでいた場所というのは、どこも似たようなのどかな場所が多いです。そして二千年前から途切れることなく人が住んでいます。


 やや急な坂を登ると山腹に立派な本堂があります。最近立て替えられただけあって、きれいです。見晴らしも非常に良かったです。

 しかし聖天院の見所は本堂の裏手にある在日韓国人無縁仏供養塔です。本堂の横から山の南斜面にでるとそこに出迎えるのはなんと!


長寿王(広開土王)の石像です!

 広開土王というのは高句麗第十四代国王(374−412)で、高句麗史上最強の英傑でして、高句麗の領土を最大限に広げました。特に大和朝廷と百済の連合軍と熾烈な戦いを繰り広げたと言われています。神功皇后の三韓征伐は、この時の広開土王との戦いの史実を伝えた物ではないかとも言われています。日本も高句麗も両方とも自分の方が勝ったと主張していますが、まあ常識的に考えて広開土王の方が優勢だったのだと思います。なんにしても広開土王の石像が堂々と屹立しているのは日本でもここくらいの物でしょう。


広開土王のとなりにいるのは太宗武烈王です。

 太宗武烈王(金春秋)は新羅第二十九代国王で、高句麗と百済から攻められて絶体絶命の危機に陥った新羅を、唐と同盟を結ぶという破天荒な策で切り抜け、新羅による朝鮮半島統一に道筋をつけた人物です。若い頃には新羅王家の人質として飛鳥にいたという説があります。天智天皇や天武天皇と同時代の人物です。もしも日本にいたのだとしたら、彼等はきっと顔見知りだったはずだと思います。

 他にも日本に儒学を伝えた王仁博士、鄭夢周(性理学者)、申師任堂(女性の文人)の石像が並んでいました。なかなかセンスの良い人選ではないかと思います。広開土王は日本と対等に渡り合った英雄ですし、太宗武烈王は今日まで続く朝鮮という国の礎を築いた人物、王仁博士と鄭夢周は日本と朝鮮の交流を仲立ちした学者、申師任堂は朝鮮では良き母の模範とされている女性です。多分朝鮮人の間でも人気が高いのでしょう。私としては李舜臣(豊臣秀吉の海軍を撃退した朝鮮水軍の英雄)の石像があっても良さそうだと思いましたが、さすがに遠慮したのかもしれません(笑)

 山の南側斜面にはサッカー場くらいの広場が造成されており、朝鮮式の建築物の休憩所もありました。


 広場より少し高い場所に十メートルくらいの石像の慰霊塔がありました。千五百年たってもなお、朝鮮半島から来た人達のために心を砕いている高麗郷の人は非常に立派だと思います。(お寺で働いている人を見ていると、多少外国人観光客の扱いには苦労しているようでしたが(^^;)


 そして山頂に鎮座するのはだいたい想像が付くでしょうが、朝鮮の伝説上の建国の祖である檀君です。日本神話で言えばニニギの命に当たるのではないかと思います。

 このように帰化人が千五百年前にたどり着いた安住の地が、千五百年後にもまた同じく朝鮮から来た人達にとって心安らぐ土地となっていることはまことに喜ばしいことなのではないかと私は思います。

 明日は日高市の町並みや鉄道の写真を載せます。

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