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2009年4月12日 (日)

高麗神社参拝記(二)

陰暦 三月十七日

 高麗神社(こまじんじゃ)とはなんなのでしょうか?学校の世界史、もしくは日本史の時間に、古代の朝鮮半島に高句麗とか高麗という国があったことを思い だす人もいるかもしれません。高句麗というのは現在の北朝鮮と満洲(中国東北部)にあった騎馬民族の国です。紀元前一世紀頃から七百年にわたって、漢や隋 といった中原の大国の侵略を阻んだ強国でした。韓流の歴史ドラマ「朱蒙」が日韓で人気を博しましたが、この朱蒙は高句麗の創始者です。

 さしもの強精を誇った高句麗ですが、大陸の唐帝国と朝鮮半島日本海側の新羅が同盟を結んで挟み撃ちにされてしまったために、天智天皇七年(668)に滅びました。その時に大量の高句麗の難民が日本に安住の地を求めて亡命してきました。

 朝廷は1,729人の高句麗帰化人を、高句麗王族の高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)にまとめさせて、武藏國西部に高麗郡(こまぐん)を設立して移住させました。若光は帰化人に慕われ、死後彼の徳を慕う人たちによって神として祀られました。それが高麗神社です。そして代々若光の子孫高麗氏が神官を務めてきました。

 当時の日本の人口は現在の20分の1の600万人ですので、1,729人というのは現在で言えば35万人と同じくらいのインパクトがあります。外国人だけで一つの都市ができたようなものです。当時の日本が大変に国際色豊かな国であったことが分かります。近江國(滋賀県)や飛鳥(奈良県)にも同じく唐と新羅に滅ぼされた百済の移民が作った郡があります。

 そして若光は高句麗王族ですので、ドラマにもなった朱蒙の直系の子孫が今でも日本に生きていて、高麗神社の神官を努めていることになります。とても壮大な話ですね。

 これが予備知識です、それでは高麗神社に行ってみましょう。


 昨日歩いた順序とは異なりますが、高麗神社といえば天下大将軍と地下女将軍です。西武線に乗って秩父へいったことがある人は、高麗駅前に奇妙な赤いモニュメントが建っているのに気がつかれたでしょうか。これは帰化人系の神社によくある村の守りです。祖先の姿を模したものといわれています。これ何かに似ていると思いませんか?そうです、アメリカインディアンのトーテムポールです。祖先の精霊の姿を高い木に刻んで、村の守りとする信仰は、世界中の民族で行われています。諏訪神社の御柱祭もこれの一形態といえるでしょう。日本、古代朝鮮、インディアンに共通の記憶があるのです。

 野々宮神社から歩いて十分ほど、高麗川を渡ったところに高麗神社があります。


 古代の外国の名前は冠した神社があるというだけで何だかワクワクしてきませんか?


 参道では桜がそろそろ散り始めていました。


 参道の両脇には錚々たるメンバーの植樹の列があります。明治時代の日韓併合後、日本に来た韓国人にとって高麗神社が心の支えとなっていたことが窺えます。そして、古代からの日韓の共存の象徴とも言える高麗神社を皇室も大切にしていたことがよく分かります。良い話ではありませんか。


 拝殿です。ちょうど北朝鮮が余計なことをしているおりでもあり、日本、韓国、北朝鮮の共存共栄を祈ってきました。


 ビックリしたのがこれ、拝殿横の参集殿(お祈りをする人の控え室)に韓流のポスターが貼ってありました。そういえば案内板には全てハングルの説明書きも付いています。今でも韓国人の参拝客が多いことが分かります。韓流のポスターが貼ってある神社なんてここくらいのものではないでしょうか?伊勢神宮のポスターと韓流のポスターが並んで貼ってある、このチャンポンが何とも言えません。多文化の共存とはこうあるべきではないかと思います。多文化の共存は米国やオーストラリアだけの専売特許ではありません。日本だって二千年前から立派に実践しているのです。戦前の日本文化押しつけこそ日本の歴史の中では異端といえるでしょう。

 拝殿下では高句麗にちなんだ展示がありました。どうやら「太王四神記」を意識しているみたいです。高麗神社のマスコットキャラ(トライ君とミライちゃん)が可愛いですね。それと高句麗の女性の衣装がきれいです。これは飛鳥の高松塚古墳に描かれた女性像とも似ています。古代の日本は朝鮮半島の強い影響を受けていたことが分かります。

 このように、日本と朝鮮の文化の共存を見事に体現した高麗神社に希望を感じました。続いて高麗氏の菩提寺である聖天宮にお参りしました。こちらも高麗神社に負けず劣らずユニークな空間を作り出していたのです。

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コメント

研究室に 哈爾浜出身の朝鮮族中国人留学生が居ました。

彼女の故郷の文化の話を聞くと、面白いことに、たとえばお盆の習慣があるとか、死生観とか、我々日本人とホント良く似てるなと感じました。

味噌汁に唐辛子をタップリかけるのはねーよと思いますが(苦笑)

歴史的経緯(中国やら儒教やらの影響)から、その後いろんな変化があって、今の韓国・北朝鮮と日本の文化はけっこう離れている部分もあるけど、根っこの部分はけっこう似ていたんじゃないかなと思います。中国東北部だからこそ、温存されたのかな?

話は変わるけど、僕が通ってた(奈良県)の小学校の校区に、コマっていう字(あざ)があったなぁ・・・。ひょっとして渡来人由来だろうか?漢字は狛だけど。

 満洲の朝鮮族と言うことはまさしく高句麗の末裔ですね。

 1500年前のNMRさんの故郷はニューヨークも顔負けの国際都市だったはずですので、そうかもしれません、というかほぼ間違いないと思います。

 こま(駒、狛、巨摩)がつく地名は高句麗系の帰化人が住み着いた場所(狛江とか駒沢とか)

 しら(白)は新羅系と言われています。

 また白髪と書いて「くだら」と読ませる地名もあります。これは百済や高句麗など扶余系民族の祖先崇拝、つまり天下大将軍のことを意味しているらしいんですね。

 やがて白髪部が変化して白壁となります。光仁天皇(天智天皇の孫で桓武天皇の父親)は天皇になる前は白壁王と呼ばれており、妻(桓武天皇の実母)の高野新笠は百済王氏(くだらのこきし)の出身です。十年前に天皇陛下が「韓国にゆかりを感じる」とおっしゃられたのはこの辺のいきさつのことを指していたのでした。

 面白いことに明治以降に日本に移住した朝鮮人も、1500年前に帰化人が住んだところを選んでコロニーを作っています。山科にある天智天皇の陵墓には韓国人学校がありますし、青梅線沿線や西武線沿線には朝鮮人のコミュニティーが多いです。

 無意識のうちなのか、あるいは分かった上でやっていることなのか、興味の湧くところです。

 お盆はインドとは全然関係のない東アジアに広く共通する伝統です。他にも小正月(多分昔は新年を新月ではなくて、最初の満月に祝っていたのでしょう)とか、収穫期の前にするお月見とか年の終わりに一年の厄を落とす追儺(なまはげ、豆まき)などがあります。

 天理にいる知り合いに聞いたところ、滋賀県にある帰化人系の神社にもハングルの案内板とか韓流のポスターがあるそうです。

 なんにしてもこのこだわりのないおおらかさが神道の強みですよね(笑)

 多神教の神道の多文化共生は、もっと評価されても良いと思うのです。一神教の博愛は他方では排除と支配の論理がきついですよね。
 東北は新羅神社や八坂神社系統が多かったりしますが、出雲系の製鉄との関連もあるとところでしょうね。昨年行った宮城県川崎町は新羅系が移住した場所でした。

 多神教は取り立てて多文化の共存などといわなくても、あるがままにやっていて共存できているのです。

 一神教が博愛を強調するのは、放っておくと際限なく敵を排除しようとする傾向がインプットされているからだと思います。

 出雲の神話には新羅が登場します。日本海を挟んで対岸でしたので両者は交流を持っていたのかもしれません。

高麗神社は、朝鮮半島で戦争が起きたとき、朝鮮半島→日本列島に避難した人に、当時の日本の役人が、居住地を用意し、そこに神社を建てたそうです。
つまり、併合とそれに関係する植樹を見るまでもなく、神社が建った時から、朝鮮半島から来た人たちの心のよりどころである事は間違いないでしょう。

飛鳥時代に高句麗の王族に率いられた亡命者が入植したのが高麗郡の濫觴という記録がありますね。

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